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スピリチュアルな人生の後半期では自我の凶暴性を理解しておくことが肝心(1/2)

今回は、スピリチュアルな人生の後半期において、あなたが赦しの実践を誠実にしているにもかかわらず、身の回りの状況が良くなるどころか、逆にこれまでよりも悪化しているように見えるのはなぜかということについての説明をしていきたいと思います。

ちなみに、スピリチュアルな人生には前半期と後半期があります。

スピリチュアルな人生の前半期とは、この宇宙と個人としてのあなたが実在していることを前提としていて、この世界に様々な違いを見い出しながら、よりよく生きていくことを目指した段階のことを指します。

ですから、あらゆる問題はあなたの外側で独自に起こっており、その問題を解決するためには目の前の問題を分析し改善、修復することが求められます。

つまりこの段階は、個人的な利益の追求といった願望実現や問題の除去にいそしむことが人生の目標になっています。

それとは逆に、スピリチュアルな人生の後半期では、この宇宙と個人としてのあなたは実在していないことが前提とされています。

あらゆる問題の原因は既に自身の内側で起こっており、目の前の問題はあなたの心を投影した結果であり、その影に過ぎない。

そして、その問題を解決するためには目の前の問題を看過し、ただ赦すことが求められます。

つまりこの段階は、個人的な利益の追求は消え去り、他者である兄弟との利害とそのゴールが完全に一致しています。

要約すれば、スピリチュアルな人生の前半期は「一なる自己」や「神」から分離すること、つまり天国から離れ出て分離の階梯を降りていくことで物理的な肉体として生きることを目的とするということです。

それ故にバラバラの個人はそれぞれの思惑で行動し、またそれぞれ違った願望とゴールを目指します。

それが真に意味しているのは、「真の自己」を放棄することで、この世界のみを実在するものとし、私はこの世界で生きて死ぬことを繰り返す脆弱で卑小な存在であるという宣言のもと、あなたが作り出した自我という教師の手をとって共に生きるということです。

そして、スピリチュアルな人生の後半期では、こうした間違った信念が自覚されるようになります。

あなたがこの世界に求めた数々の幸せは一時的なものに過ぎず、真に頼りになるものではなかったという絶望感によってあなたは目覚めます。

私は分離した肉体ではなかったこと、また私が作り出した自我とその世界は私を苦しめるだけに過ぎなかったことが明らかになります。

こうして、分離の階梯の底から逆戻りする人生をスピリチュアルな人生の後半期と呼んでいます。

ですから、スピリチュアルな人生の前半期に間違った信念によって積み重ねた罪悪感を取り消すことが、スピリチュアルな人生の後半期には求められます。

そして、この「真の自己」へと還る道すがら、今まであなたが頼りにし共に過ごしてきた自我が凶暴かつ獰猛になってくるということです。

つまり、身の回りの状況が悪化するように見える一つの原因を端的に言えばこういうことになります。

それは、聖霊の正しい思考体系にシフトし始めた瞬間、これまでの間違った自我の思考体系が浮き彫りになってくるということです。

これは真の原因ではないですが、このことを理解しておくことは非常に大切です。

これまでのあなたは自分を他者と切り離された一つの肉体として認識してきたがために、つまり自我と一体となって生きてきたがために、そのあまりにも近い自我との距離によって自分が間違った思考体系で生きてきたことに全く気付いていなかったのです。

外側の結果にばかり目を向けていて、内側にある原因を観ることを完全に放棄していたのです。

これは例えば、自分の顔に汚れが付いていたとしても、肉体の眼は外側を見るという機能によって自分の顔の汚れに気付けないのと一緒です。

それに気付くためにはあなたの汚れた顔を映す鏡が必要です。

そして、その鏡の役目を果たしてくれるのがこの世界であり、他者という兄弟姉妹たちなのです。

あなたは自分の罪悪感を外側に投影することで、はじめて自分の罪悪感を認識することができます。

しかし、自我はこの「投影のはたらき」を、自分の罪悪感を強化する方法として他者の中に罪を見て攻撃します。

そうすることで、あなたは自分の罪悪感を手放すことができると信じているのです。

逆に、聖霊はこの「投影のはたらき」をそのまま利用して自分の中にある罪悪感を認識し手放す方法として自我の思惑を一転させます。

自我は分離の概念を強化させるために、「他者を裁く」ことであなたの罪悪感を隠蔽しようとするのです。

ですが、聖霊はあなたが兄弟姉妹と一つである、つまり神との一致や融合を思い出させる手段として「赦し」による罪悪感の取り消しをあなたに教えます。

つまり、あなたが赦しの実践をしているにもかかわらず、身の回りの状況がこれまでよりも悪化しているように見えるのはなぜかというと、今まで無意識だったものが意識化されてきたということです。

あなたの意識の上に、もはや必要ではなくなった自我の思考体系が浮上してきたということです。

これを真っ暗な部屋に明かりが灯ったときに部屋の中に散乱していたゴミがはじめて見えてきた様子として想像してみてください。

暗い部屋とは、エゴの間違った思考体系を意味していて、それは闇を表しています。

反対に、明かりとは聖霊の正しい思考体系を意味していて、それは光を表しています。

自我の間違った思考体系は真実ではない故に虚偽であり無です。

つまり、嘘偽うそいつわりの幻想であるため、そこに実在性はありません。

ですから、聖霊の思考体系という正しい心で観られたなら簡単に消え去ってしまうということです。

光のあるところに闇は存在できません。

闇とは、ただ単に光の欠如のことです。

間違った心は、正しい心の欠如であり、恐れは愛の欠如です。

ですから、暗い部屋に明かりが灯れば、その闇はその性質が故に消え去るしかありません。

そして、明るくなった部屋の中で散乱しているゴミの数々はあなたが未だに持ち続けたいと思っている罪悪感の残骸です。

聖霊はあなたにこの必要のない罪悪感というゴミをただありのままに観て赦しをして欲しいのです。

つまり、今まで暗い部屋によって見えなかったゴミが光によってあらわになったということです。

あなたは今まで気付かないうちにこれらのゴミ、つまりあなたの罪悪感を外に投影し世界や他者を攻撃してきました。

あなたはゴミを自身で不法投棄しておきながら、その罪を誰かに擦りつけ、そのことを一生懸命に裁いてきたのです。

その無意識による自作自演の行為によってあなたは、自身と兄弟を攻撃し傷付けていたのです。

しかし、聖霊の正しい思考体系である光があなたの心に差し込んだとき、その原因が実は自分の側にあったことが自覚されることで痛烈な反省があなたに起こるのです。

こうした、自覚の一つひとつがあなたにとっては目を背けたくなるものになります。

このときに自分の正しさが段々と剥がれ落ち、それと同時に自分のありのままの姿を観てあなたは狼狽します。

私の世界や兄弟を見る見方が全て間違っていたという気持ちがあなたを落胆させ失望させるのです。

ですが、実はこの落胆し失望しているのは自我自身であることを覚えておくことはあなたの助けになります。

こうして、誰かを罪悪感の標的にし攻撃するという戦いのリングからあなたは次第に身を引くようになり、それとともにあなたは周りからも赦されるようになり、優しい世界が顔を覗かせます。

なぜなら、あなたが先に赦しを与えたからこそ、世界はあなたに赦しという平安なる世界を与えるからです。

ちなみに、この真理に暗い状況のこと、つまり自我に同一化していることを仏教では「無明むみょう」と言います。

明かり(真理)が無いということです。

この無明を晴らすことが釈迦の最も伝えたいことであり、それが阿弥陀仏の他力本願に頼るというものです。

阿弥陀仏の他力本願とは、仏の生きとし生けるものを救わずにはおれないという強い願いのはたらきのことです。

これはまさに聖霊の救済計画と同じものです。

ですから、この時期はあなたにとってあらゆる困難や葛藤が目に付くようになります。

なぜなら、今まで当たり前のように誰かを咎めたり、怒りの対象にしてきたことが実は自分の中に原因があったことをあなたは知ってしまったからです。

あなたが誰かを裁き攻撃するたびに、あなたはまた間違ったことをしでかしてしまったと気付き反省します。

この毎回の反省の一つひとつが、あなたを落ち込ませ、赦しをしているにもかかわらずあなたに観えてくるのは自身の汚い心ばかりであるが故に自我はそれを辞めさせようと必死に妨害してきます。

この、自我の間違った心と聖霊の正しい心を行ったりきたりする時期はあなたに様々な葛藤ある状況を引き起こさせます。

なぜなら、あなたの心が今どちらの教師の手を取ろうとしているかというジレンマによって世界にも同じくその葛藤が投影されるからです。

あなたはこの時期に、自我の間違った思考体系と、聖霊の正しい思考体系の良いとこ取りをしようと必死に抵抗します。

つまり、聖霊の教えたい一致した全体の利益を求めつつも、その反対である自我による個人的な利益の追求も得ようと試みるということです。

これは、「偽りの自己であるバラバラな肉体同士」と「真の自己である一なるスピリット」をなんとか統合したいという矛盾した考えです。

こうした、無謀なエゴの思考体系はそれそのものが偽りであり、実在していないがためにそれを存続させようともがく度にあなたは苦しみ傷付きます。

自我は自身の存続をかけて聖霊の思考体系である正しい心を攻撃し続けます。

しかし、聖霊はそれを観ないことでその実在性を否定します。

なぜなら、真理とは幻想の一切の不在だからです。

真理は幻想の不在であり、幻想は真理の不在である。両者は一緒に居ることはできず、同じ場所に知覚されることも不可能である。両方に献身することは、永遠に達成不可能なゴールを設定することである。(T-19.1:5-8)

奇跡講座/中央アート出版社

両者に献身することはあなたを露頭に迷わせるだけです。

互いのコミュニケーションは常に断絶しているのです。

無罪の者と有罪の者がお互いを理解し合うことは全面的に不可能である。どちらも相手を自分自身と同じように知覚し、そのことが両者の間のコミュニケーションを不可能にする。なぜなら、どちらも、相手がその人自身を見るのとは異なる見方で相手を見るからである。(T-14.4:10)

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ここに自我による抵抗の激しさ、そして自我の凶暴性が現れる真の原因があります。

それは、あなたが自我を裏切って「罪悪感という闇」の代わりに「無罪性/無垢性という光」を選び始めるときに、自我はあなたが自我を裏切りつつあることを、はっきりとあなたに教えようとするからです。

自我はあなたが行うすべてのことによって欺かれる。とりわけ、あなたが聖霊に応答するときにはそうである。なぜなら、そのようなとき、自我の混乱が深まるからである。したがって、あなたが愛をもって応答するとき、自我があなたを攻撃する可能性は高まる。なぜなら、自我はあなたを愛のない存在だと評価しているのに、あなたはその判断に逆らっているからである。あなたの動機が、自我が知覚しているあなたとは明らかにそぐわないものになるやいなや、自我はそれを攻撃する。自我が猜疑心から凶暴性に突如として移行するのは、このときである。それは、自我の確信のなさが深まるからである。 (T-9.7.4:4)

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壮大さは神に属し、神のみに属するものである。したがって、それはあなたの中にある。いかにかすかにであってもそれに気づくときは、あなたはいつでも自ずと自我を捨て去る。なぜなら、神の壮大さの前では自我の無意味さがすっかり明らかになるからである。これが起こるとき、自我はそれを理解していないにもかかわらず、「敵」が襲撃してきたと信じ、あなたが自我の「庇護」のもとに戻ってくるようにと、贈り物を差し出そうとする。自我が差し出せる贈り物は、慢心だけである。自我の尊大さが、神の壮大さに代わる自我の選択肢である。あなたはどちらを選択するだろうか。尊大さとは、常に絶望を隠すための覆いである。それは実在しないので、希望がない。それは、卑小さは実在するという信念に基づいて、あなたの卑小さを打ち消そうとする試みである。この信念がなければ尊大さに意味はなく、あなたがそれを望むことはあり得ない。尊大さの本質は競争心である。なぜなら、それはいつでも攻撃を伴うからである。それは凌駕しようとする妄想的な試みであり、取り消そうとする試みではない。私たちはすでに、自我は猜疑心と凶暴性の間を揺れ動くと述べた。あなたが自分自身に絶望している間は、自我は猜疑心をもち続ける。あなたが自己卑下に甘んじることをやめて、苦しみの軽減を求めるという決断をすると、自我は凶暴性に移行する。それから、自我は「解決策」として、攻撃という幻想をあなたに差し出す。 自我には壮大さと尊大さの違いがわからない。なぜなら、自我には、自我自身がもつ信念の中で自分にとって異質な信念と、奇跡志向の衝動との見分けがつかないからである。すでに述べたように、自我は自らの存在に対する脅威を自覚しているが、これらの非常に異なった種類の二つの脅威を区別しない。自らの深い脆弱感のゆえに、自我は攻撃という観点からしか判断ができない。脅威を体験するとき、自我が下す決断は、今すぐ攻撃するか、それとも後で攻撃するために今は撤退するかの、どちらかでしかない。もしあなたが自我の差し出す尊大さを受け入れれば、自我はただちに攻撃する。あなたがそれを受け入れなければ、自我は待つ。(T-9.8:1)

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これらは、あなたが聖霊という教師に従っているまさにそのときに、自我はあなたを攻撃し凶暴になってくるという現象を明確に描写しています。

思い出して欲しいのは、自我にとっては罪悪感を抱いていない者は有罪だという点です。

あなたが赦すという動機によって聖霊に従って進もうとし始めると、自我は徹底的に凶暴になります。

これが、状況が悪化し始めるように見える真の原因です。

これを抽象的な原則として紹介していますが、実際にそこを通過することは、抽象的とは程遠いものになります。

それはあなたが経験することの中で、最も衝撃的で理不尽かつ強烈で、また苦痛を伴う経験となることがあり得ます。

繰り返しますが、真理と愛を代弁する存在、つまり自分を違った見方で観ていてくれる存在が共にいてくれるということを、あなたが知らなければ、あなたはこの時期を通過することは決してできません。

そうでなければ、あなたはただこの赦しというレッスンを放り出して、二度と戻ってはこないでしょう。

あるいは、このレッスンとは真反対の二元的な教えの方向に逃げていくでしょう。

二元的な教えとは、あなたを物理的な身体で他者と切り離された一個人とみなした上で解決策を与える教えのことです。

これは詰まるところ、先にも述べた通り問題は実在していることを前提にした上でその解決を与えるような教えのことです。

つまり、個人的な願望を叶えるといった、いわゆる世間一般のスピリチュアルな教えに逃げてしまうということです。

このことについての詳しい内容は過去記事をご覧ください。

自我による誘惑 スピリチュアルな教え編(1/2)
自我による誘惑 スピリチュアルな教え編(2/2)

これらの教えは罪悪感を見ないようにすることで分離の概念をますます強化させることになってしまいます。

しかし、たとえ一時の過ちとしてそのような自我の誘惑に晒されて道を外そうとも、そのことを正当化したり、また咎めようとせずに、それすらをも赦しの機会にする事は可能です。

ですから、あなたがどのような状況に今置かれているとしても、あなたの決断次第で聖霊による赦しはいつでも正しく機能するのです。

であるからこそ、この聖霊によるカリキュラムのプロセスはゆっくりと進められなければならず、それ故にあなたは慎重に導かれているのです。

あなた(私たち一人一人)の救済(贖罪)の計画は聖霊によって非常に周到に用意されています。

ですから、その完了までにかかる時間は人によって様々に異なるのです。

カリキュラムは個人の必要に即したものとなっており、そのすべての側面が、聖霊の特別な配慮と指導のもとにある(M-29.26)

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これはどういうことかというと、分離という私たちの共有の誤まりが個人としてのあなたにおいて顕現されている具体的な形のすべてを、聖霊があなたのために訂正してくれるという意味です。

このカリキュラムを計画するのはあなた自身(私たち)ではありません。

本当のところ、あなたはこの計画が何であるかさえも理解していないのです。

そして明らかに、あなたが自分で自分にその中を通過させるわけでもありません。

ですから、あなたは自分自身を神と混同しないようにすることが極めて重要です。

なぜなら、神をそのように誤解していると、状況が困難になったときにあなたが頼りにできる存在がいなくなってしまうからです。

聖霊は常に、あなたを助けるためにこの世界の中にいる人々を送ってくれると言っているのは確かですが、こうした人々が送られてくる究極の目的は、あなたを最もよく助けることのできる存在はあなたの中にいるということを、あなたが知ることができるように導くことです。

あなたが困難な状況を通過するとき、あなたの手を握っていてくれる人々がいることは、とても有り難いことです。

けれども、慰めの究極の源は、常に内側にいるのです。

なぜなら、神が答えを置いた場所はあなたの中だからです。

これは時間のかかるプロセスであることを肝に銘じておくべきです。

もし、あまりに速く進もうとするなら、あなたが自分自身や神に対する自信を十分に培う以前に、恐れが圧倒的なものとなってしまうからです。

自分自身に対する自信というのは、本当に聖霊がそこにいて、このプロセスの最後まで助けてくれると知っているということです。

あなたが進歩していき、毎日の学びのすべてを赦しの実践にしていくにつれ、起こっている奇跡や変化のすべては、自分自身が行なっているものではないということをあなたは認識し始めます。

あなたがこのプロセスを進むのを助けてくれている存在が確かにいるのです。

あなたにとって、イエスか聖霊のどちらかと個人的な関わりを育てていくことはとても重要です。

機能という観点から言えば、イエスでも聖霊でも、どちらを選択しても同じです。

どちらも、あなたにとっての内なる教師として完璧に機能します。

この内なる教師があなたとの関わりにおいて強化されていくためには、聖霊を抽象的な存在として扱わないことが大切です。

一人の人格として観ることです。

聖霊とは、あなたに対する神の愛の表現なのです。

イエスが自分自身の役割について語っているときにもこれと同じことが言えます。

ですから、聖霊はあなたに自分の内には頼りになる存在がいるという感覚を育てさせようとしています。

抽象的な影響力のようなものではなく、あなたを愛し助けてくれる本物の人間のような存在です。

もし、あなたをこのように安心させてくれるものがなかったなら、あなたはゴールのずっと手前で止まってしまいます。

なぜなら、恐れがあまりにも圧倒的だからです。

もし、あなたがまだ聖霊とのこうした個人的な関わりを経験していなくても、どうか狼狽うろたえないでください。

ただ忍耐強く待っていれば、そのうち聖霊の方から現れてくれます。

あなたの方では、あなたを助けてくれている誰かがいると知ることだけで十分です。

それを実際に感じているか、ただ知的レベルの認識であるかに関わりなく、とにかくそういうものだと思っていればいいのです。

聖霊は、あなたが受け入れることができるどんな形ででも、自らをあなたに現してくれます。

形そのものは重要ではありません。

けれども、重要なのはあなた自身からのものではない誰かがあなたと共にいるという自覚です。

その存在はあなたの中にいますが、あなたからのものではありません。

聖霊は、あなたの自我としての自己以外のあなたの一部からくるものです。

ですから、私には内なる声が聞こえないからといって劣等感や罪悪感を持つ必要はありません。

自身をまるでこのカリキュラムの落第生かのように扱うことは決してしないでください。

あなたは聖霊によって完全に、そして安全に導かれているのです。

あなたにはそれを受け入れるための少しの意欲と聖霊への信頼を差し出すだけで十分なのです。

スピリチュアルな人生の後半期では自我の凶暴性を理解しておくことが肝心(2/2)へ続く


あなたはもう一人ではありません。

なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。

神の子にはどんな苦しみもあり得ません。

そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。


〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜 
リンプ


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