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4 アダルトチャイルド、その窓を覗くー私の家族に何が起こっていたのか

 私は4人家族の末っ子で例えるならちびまる子やあさりちゃんの家族のような家だった。父が買った一軒家、台所に立つ母、ちょっと怖い姉、ちょっと頼りないけど夜はビールの父。昭和の典型的な核家族だったのではないかと思う。私が小学1年の時に父は単身赴任になり、私が6年生になるまで戻らなかった。私はこれがうちの家族最大の失敗だったと思っているし、そういう事情で現在夫の転勤により海外に住む選択をした。我が家に問題が起きたのは、父が単身赴任から戻り、認知症の祖母との同居を始めてからで…いや、その前から問題はあった。父が帰ってきたときだ。そしてそれが表面化したのは父が戻ってからだということは言うまでもない。ピークは私は17~19歳だった。共依存だった母はおそらく、父が帰ってくるたびに起きる問題を、気にしないように、小さな問題のように、普段はないことのように過ごしていたのだろう。

機能不全家族のチェックリスト

・身体的言語的アビューズがあったか

 認知症の祖母を引き取った後、父の様子がおかしくなった。夜、酒を飲んだ後、母が別部屋で塾を開いている間、祖母に「この髪の色は何だ。弱いふりをやがって。演技なんだろう。」と悪態をつくようになった。そこで娘たちが祖母をかばうと父は「家族は北朝鮮から来たスパイに成り代わった」と言い徐々にエスカレートし、深夜に家族を追い出すようになった。反抗期真っ盛りの私は、父にコーヒーをぶっかけたりしつかみ合いの喧嘩をしたこともあったし、おかしな妄想に何も答えずにいると突然蹴られたこともあった。警察を呼ぼうと思ったこともあった。ほんの1、2回程度だが全くないとは言えないと思う。

・家庭の不和があったか

もう何時聞いたのか忘れてしまったけれど、父が戻った後か、私が思春期の時になるのか、父が浮気していた、その相手に書いた手紙が破かれて車にあったという話を母から聞かされていた。両親同士のけんかはほとんど見たことがないが、父は再婚で子供がいたことを母は子供には話さずにいて、単身赴任中に父が酔っぱらって家に電話をしてきて、「お前には兄貴がいる」と言ったため、母が父と話すために父のもとへ行き、私と姉は初めて家で一晩留守番をしたこともあった。記憶が定かではないが母がいないために祖父母が来てくれた日もあった。父が家に帰って酔うと母に悪態をつき、娘たちと口論になることは多々あった。「飯炊き女」という言葉を小学校4年で覚えた。

・怒りの爆発がよく起こっていた。いつ怒りが爆発するかと恐れていた。

子供の頃はなかった。父が戻り飲むと豹変するようになってからだ。「家族がスパイになった」「戦争で長女が死んだ」「出ていってくれ」のスイッチがオンになる瞬間を私はよく知っていたし、幾度となくビールを捨てた。怒りだけではなく、それは父が何かを手に取りずっと不審そうに眺める行為や、手を必死に洗う行為、写真を裏返すなどの普段と違う行為にも目を光らせていたし、徐々にそれは飲んでいない時間も含まれるようになっていった。父以外の例えば職場に徘徊してきた認知症のおばあさんと追いかけてきたお嫁さんの間に、オンやオフになる瞬間を感じることがあった。

・愛のない冷たい家族だった

自分でもなぜだかわからないけれど、家族が愛し合っていることだけはものすごい自信を持っていたし、少なくとも父も母も私を愛しているので私が何をしても最終的に受け入れられると思って育ってきたし、実際受け入れられてきたと思う。では姉はどうかというと、子供の頃は力のある権力者であり、気分で暴言を吐いたり嫌がらせをすることもあるが、おおむね仲良くやれている存在だと私は思っていた。大人になるにつれて、私のほうが背が高く力もついて権力は弱まり、それにより仲のいい姉妹になっていったような気もする。「仲の悪い友達のような姉妹」と姉は昔よく言っていた。

・人格を否定するような雑言や怒鳴り声が飛び交っていた

子供の頃は姉に「こんなこともできないのか(知らないのか)」と言われたことは多かったと思う。「豚、ブス、のろま」「大事な妹」という歌詞は大事じゃないから妹を削除する。わざと一緒に行った場所からこっそり一人で帰り泣かせるなどはよくあった。おかげでいじめには負けない子になったと思う。父が戻った後は人格以前の問題で「長女は弾丸を受けて死んだ」「出ていけ」「お前たちのせいで俺の人生は散々だ」「いつ入れ替わったのだ北朝鮮人か」「長女は妻と妻の弟の間に生まれた子」というめちゃくちゃな妄想を浴びせられていた。母はこれを隠さず、姉に話した。よく考えてみると、父の妄言はこの時に始まったことではなく、祖母と二人で旅行に行って帰ってくると「旅館に巡査が来てここにエイズがいると尋問された」や「芸能人と親戚関係だ」「子供の頃にメイドさんがいた(後から調べたら本当だった)」「私の通った道に草は生えないと言われるほど仕事ができた」などの子供に見せても意味がないような自分を大きく見せる発言もよくあって娘たちは父親の言葉を信用ならないものだと思うようになっていた。

・他人や姉妹と比べられた

これは母がしないようにしていたと思う。私は「お姉ちゃん」と呼ぶことを禁止されていた。姉は大人から嫌われることが多く、私は逆にその人たちから好かれることが多かった。卒業の時の先生のメッセージに「お姉さんと違って天真爛漫で素直な子」と書いていた。これを書いていると姉の生きづらさもすごく感じる。それでも許すことできない。これが毒親離れだとしても、一貫性がなさすぎる。

・親と子供の関係が逆転していた

 母の愚痴を聞かされていたので大人になってから父方の叔母たちは敵じゃないことを理解するようになった。一緒に墓守をしているがとてもかわいがってもらっている。 母方の叔母(嫁)も今どんなに素敵な人かわかる。でも子供の頃は悪い人たちだと思っていたし、父はダメな人だと思っていた。そして、まだ自分が経験する前に父と母の性の話は聞きたくなかった。特に姉が、母から離れることが少なかったので聞いてはいけないことを聞いていただろう。母の実家に泊まってもなぜか子供のころから私は従妹と、姉は母と祖母と一緒に寝ていた。叔父(母の弟)は「祖母と母と姉は一本の線でつながっている」と言っていた。今はその意味がよくわかる。

・自分の存在を否定された

「長女は近親相姦の子、俺の子じゃない」と父が言った翌朝、母は思いつめたような顔をして私たちに「家を出ましょう」と言って、自宅から数キロ先の平屋に三人で引っ越した。父が姉にどんなことをするかわからなかったからだ。それに、父が離婚調停を申し込んだのもある。父は「お前も出ていくのか」と私に言い「知ってるか?長女は俺の子じゃないんだ」と言った。

 父が私の存在を否定しなかったのは、私が母とカウンセラーのもとへ通う中で私が父を否定しなくなったからではないだろうかと思う。カウンセラーにどんな妄言も妄想も否定してはいけませんと言われ、私は素直にその通りにした。リビングで母と姉が話しているとき、父がやってきて「もういい加減にしてくれないか。」とオンになったとき。私は風呂から出て父に言った。「お父さん、大丈夫。わかってるんでしょ。もう夜遅いから今日は寝てしまおう」すると父はぶつぶつ言いながら寝床に戻っていった。高校生にこんなことやらせたらほんとはダメだよね‥心が通じたような気がしてあの時はうれしかったけれど、喜ぶと母に「静かに!聞こえていたらどうするの!」と怒られた。

 姉はそれでも別居中の父にクリスマスカードを送っていた。そのカードが父が亡くなった家に飾られていて、私は姉に「偉かったね」と言った。

・依存症や共依存の親がいた

 前回の共依存のチェックリストから機能不全家族のチェックをするにつれて、大きく心が動くのは母の共依存とそれを引き継ぐ自分と、姉の生きづらさだ。そして「家族はこうあるべきなのに」という捨てられない思い、不幸の多かった私たちの生活の中にあった「理想の家族らしさ」。両親が死に、今感じる姉への憤りは何から生まれて、どこへ行くのか。もしかして姉本人への怒りだけではないのではないか。

 毒親に悩む人たちを姉に置き換えて、すべて親のせいにしてすべて私に責任を押し付けてきた存在のように見てしまった時もあると思う。その人たちもきっと自分の中の膿を親のせいにして流すことができるなら、こんなに悩まないんだわ。それなら私もすべて家族と姉のせいにしてここで終われるはずだもの。


このステップで自分が機能不全な家族で育ったルトチャイルドか明らかになったことでしょう。

アダルトチャイルドではないという気持ちから、家族の問題の保留期間が長すぎて、軽症で済んでいると感じているアダルトチャイルドですと言えるようになりつつある気がする。


次回は心の傷についてお送りします。

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