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ピノ・ノワールな女

これほど、不安定で妖艶な品種はないと思う。

ピノ・ノワール。赤ワインの品種。リースリングと同じく、基本的にブレンドされず、固有の土地、この区画、というテロワールあるいはミクロクリマ(微小気候)を体現する品種。代表産地はフランスのブルゴーニュ地方で、厳格なアペラシオンの元に等級がある。

ピノ・ノワールを飲むことは、「物語」や「詩」を読むことと似ている。
サクランボやスモモの果実のほか、マッシュルーム、毛皮、ジビエ、森の草、スミレーー。ひとたび、優れたピノ・ノワールを飲めば、森の中に迷い込んだように、美しい異世界へと誘う。ただそれは、良質なピノ・ノワールにしか当てはまらない。どの年が当たり年か、その年の気象条件によっても、左右される。

ある者は、口に含んだ記憶から、女体のようにくねる姿を呼び起こして、果てるだろう。
ある者は、飲んだこともないのに想像するだけで、しっとりとまとわりつく感覚を想起し、果てるだろう。

当然ながら、そんな妖艶なピノ・ノワールを育てるのは、決して容易ではない。
どのような条件下で育つのがいいのか、いかに優れた醸造家でさえも、最終的には「わからない」となってしまう。もちろん現代の技術を持ってすれば、土壌の性質や天候、ある程度は分析できるけど、最終的には説明がつかない領域がある。おそらく、ピノ・ノワール自身も、わかってないのだろう。

彼女に魅了された醸造家は、運命を感じる様々な土地でピノ・ノワールを栽培することに挑戦するが、挫折するものも少なくない。とにかく、気難しい品種。

ピノ・ノワールは「熟成」と「タイミング」が人生の命題だろう。
若いうちのピノ・ノーワールはガーネット色で可愛らしい。ただ、それはあまりにも時期尚早で、その可愛らしさで言えば、他の品種、例えば、ボジョレ・ヌーヴォーで有名なガメイ種などと比べたら、劣ってしまう。若いうちは、全体的に細く、頼りない上、どこか尖った印象を与えてしまうのが、ピノ・ノワールだ。

他の品種とはタイプが違う。無理に本質ではないところで戦っても、劣等感しか湧かない。

彼女は泣き叫ぶ。

「どうして、あの娘たちにできて、私だけできないのだろう?
私に何が足りないんだろう?」


なんの知識もなく、浅い思考で若いうちのピノ・ノワールに近づくと、その真価に全く気がつかず、「他のワインの方が美味しい」と罵声を浴びせるものもいるだろう。それがさらに彼女に追い打ちをかける。

優れた舌を持つ者は、若いうちのピノ・ノワールを一口飲んで、「あなたはまだ飲むタイミングではないよ」と助言してくれるかもしれない。だか、そんな賛辞でさえも、彼女にとっては、劣等感を助長してしまうだけだった。
じっくりと焦らずに熟成することで、本来の姿を表す品種なのだ。

ただ長く熟成させればいいというわけではない。10年ほどで彼女の真価が現れるワインもあるだろうし、30年、40年とかけて、ようやく「彼女」のタイミングが訪れるワインもある。
じっくりとそのタイミングを待っていたピノ・ノワールは、ここぞというタイミングで飲み手がコルクを抜いても、貝のように閉じた印象を与える。

「本当に今でいいの?自分をさらけ出してもいいの?」

無理もない。長く長く自分のタイミングがわからず、ずっと熟成してきたのだから。
長く長く熟成させたピノ・ノワールは、熟練のソムリエにデキャンタージュ(大きくて、アラジンの魔法のランプみたいなガラス瓶に入れる)をしてもらい、空気をふんだんに吸わせて、彼女を呼び起こす。
もう、あなたのタイミングは来たんだ。不安に思うことはないんだよ。落ち着いて自分を開いたらいい。
そう、ゆっくりと話し掛けながら。
大丈夫。仮にそれが良年ではなかったとしても、ピノ・ノワールの愛好者は、すべてを受け入れて、あなたを隅から隅まで愉しんでくれるから。


だから安心して、己を解き放てばいいのよ。

怖がることは何もないの。



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