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『ガラスの動物園』イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出、イザベル・ユペール主演(新国立劇場、2022年)

アメリカの劇作家、テネシー・ウィリアムズの1944年初演作『ガラスの動物園』のフランス語による来日公演。フランスのオデオン劇場制作。

『ガラスの動物園』は、ウィリアムズの自伝的作品とされる。

登場人物は、夫が去り貧しい暮らしをする中でも南部でのお嬢様時代を懐かしみ子どもたちの幸せを願うアマンダ、アマンダの娘で脚に障害があり高校中退後は家にこもってガラス細工の動物たちをめでているローラ、アマンダの息子で靴工場で働いて家族を養いながら詩人になることを夢見て夜は映画館に通うトム、そしてトムと高校が同じで今は同じ靴工場に勤める青年ジムの4人だ。失踪したアマンダの夫でローラとトムの父親は、登場せず、舞台セットの写真の中にだけ存在する。

冒頭でトムが語り手として過去を回想すると観客に告げる。今回の舞台では、舞台手前と舞台中央・奥を分けて、その間に黒い幕が下りるようになっている(幕の上部に日英バイリンガルの字幕を表示)。舞台中央・奥の空間は、アマンダたちの家である。穴倉のように土塀のような色になっていて(遠い客席からはわかりづらかったが、「全体が毛皮で仕立てて」あるらしい)、壁が部分的に開け閉めできるようになっており、棚やドアを表しているらしい。部屋の仕切りはないが、台所や階段の踊り場のセットがあり、居間やローラのいる空間(部屋?)も設定されているようだ。

クラシックやジャズやシャンソンのよく知られた(CMなどで俗っぽい使われ方をすることもある?)曲を流したり、アマンダとトムの緊張感が高まる場面でわざとらしく時計の針が動く音を大きく入れたり、トムが現在の語り手として過去を回想するときは舞台の手前に移動したりと、どちらかといえばわかりやすい演出だった。

『ガラスの動物園』は、昔、日本語訳で戯曲を読んだことがあり、アメリカ映画だったか、映画化作品も見たことがあるような気もする。細かいことは覚えていなかったが、一定のイメージはぼんやりと持っていた。しかし、今回の舞台は、登場人物の造形が、私が持っていたイメージとは結構違っていたように思う。

アマンダは口うるさく、こういう人が同居家族だったらトムみたいにつらい思いをするだろうなと思うが、イザベル・ユペールはこの役を、思い込みが激しく押し付けがましいが、彼女なりに子どもたちの幸せを本当に願っている母親として、ユーモアも持って演じていた。(アマンダの演技に客席から笑いが上がることは、もちろん彼女の苦しみや悲しさも理解した上で、それをユーモラスに表現するたくましさに敬意を表することを意味し得ると思う)

ローラは、最もイメージと離れていたかもしれない。スカートではなくパンツをはき、声が低くて太く、高校時代にひそかに好きだったジムと話す場面では、積極的に彼の体に触れている。脚に障害があるという設定だが、脚を引きずって歩くことはなく、ジムとのダンスの場面では、ジムに支えられながら壁に両足を付けるというアクロバティックな動きも見せる。自嘲気味に神経質に笑い声を上げるところでは、秘めた異様さ(悪い意味ではなく)のようなものも感じた。おとなしくて内気だが、大胆になれるときもある人物として描かれていた。今回の公演で、私のイメージの中のローラは、スカートをはいていて、弱気で臆病で、男性とまともに話せないような姿だったのだなと思って、ローラは気弱な(だけの)女性=スカート・か細い声、みたいな偏見を自分が持っていたことに気づいた。

ローラはもうすぐ24歳で、ジムは23歳という設定。今の感覚では若いが、1930年代当時のアメリカではそろそろ結婚する年齢だったようだ。

ジムは、黒人の俳優が演じている(役の設定は、アイルランド系)。フランスの場合はわからないが、少なくともイギリスの演劇では、人種が特定されていない役(あるいは当然のことのように白人が想定されていた役で、そのため従来は白人が演じていた役)を黒人やアジア系などマイノリティーとされる俳優が演じても、特にその配役に意味を持たせるようなことは現在ではあまりないと思われる。今回の舞台のジムについても同様だと思うが、アマンダがジムに、若い頃に南部で召使たちが面倒を見てくれたという思い出話をする場面では、その召使は黒人だったのだろうかなどと考えると、やや皮肉っぽい意味合いを感じ取れてもしまうかもしれないが、それは観客側に偏見があるせいなのか、いややはり意図的な演出なのか?

昔、戯曲を読んだときのジムの印象は、優しくていい人で、ローラにも同情だけでなく好感も持って親切にしたものの、もうすぐ結婚する婚約者がいるため、ローラたちにこの夜にした以上のことはできず、自分でもどうしようもなかったのだな、というところだった。しかし今回の舞台を見て、ローラに劣等感を克服しないといけないと言ったり、ローラと恋愛できない立場なのにダンスに誘ってかわいいと言ってキスをしたりと、善意から親身になっているだろうだけに、結構罪な人だなと思った。ジム役の人は好青年として演じていて実際そう感じたし、ジムのせりふにもあるようにローラに言ったことにうそ偽りはなかったのだろうし、キスをした後だけれど正直に婚約者のことを伝えたし、2人で過ごした短い時間は(少なくともローラの)人生に残る真摯な瞬間だったとは思うのだが。

ジムと踊っているときに、ローラの大切なコレクションであるガラス製のユニコーンが落ちて、角の部分が取れてしまう。これでガラス製の馬たちと同じになれてかえってよかったのかもしれないと言うローラは、ユニコーンと「ほかの人たちと違う」自分を重ねているのだろうが、ジムとの出会いが今後ローラを変えるとはあまり思えない。

(この戯曲が自伝的であることを踏まえて、ユニコーンの角が取れたことを、ウィリアムズの2歳年上の姉が受けたロボトミー手術になぞらえる解釈もある。それで、今回の舞台でみられるローラの野性味がそがれて、おとなしくなってしまう、という見方か。そうすると、ローラがジムに、角が取れてしまったことについて、馬と同じになってよかった、と言ったのに対して、ジムが、君はユーモアがあるね、と返すせりふが悲しいものとなりそうだ。一方で、ローラは、ユニコーンを壊してしまったと謝るジムに罪悪感を感じさせないように気遣ったのかもしれないし(人とのコミュニケーションが苦手な設定だが、人への優しい感情があることを示している?)、本人なりに前向きにいようとする姿勢だったのかもしれない)

二度と会うこともないであろうジムが去り、弟のトムは家を出ていってしまい、ローラはますます自分の内面世界に閉じこもるのではないだろうか。しかし、それを「不幸」と他人が決めつけることはできない。母親のアマンダの意向には添えなかったし、トムは一生ローラを心配するのだろうが、ローラにはローラの世界がある。

角が取れたユニコーンをローラはジムに託す。ローラは一生、ジムとの高校時代とこの夜の出来事を、胸が痛むけれども大切な思い出として抱えていくのかもしれない。

トムは、今回の舞台で気になるところはそんなになかったのだが、公演パンフレット(無料配布されたもの)に掲載されている演出家へのインタビューによると、演出家は、トムは自分では意識していなかったかもしれないがジムを(恋愛対象として)好きだった、という解釈に引かれたという。トムが映画を見に行っていることに対してアマンダは本当に映画を見ているのかと疑っていて、ジムのせりふからも、ジムはゲイで男性たちと会っていたのではないか(映画館にも言っていたのだろうけども)、という解釈も紹介されていた。それで、そういえばウィリアムズ本人がゲイであることを(以前知っていて、その後忘れていたが)思い出した。

昔(たぶん子どもの頃)日本語訳で戯曲を読んだときは、トムはローラのことをすごく大切に思っているようだから、トムはローラを姉としてだけでなく恋愛として少し好きなのかなと思ってしまったような覚えがあるが、そうではなく、トムは、自身が舞台設定の(回想の中での)1930年代のアメリカではタブーであったであろう同性愛者であったとするなら、望みどおりの仕事や人生を得られていない鬱屈とともに、秘密にしなければならなかった性的指向もあったがゆえに、障害を気にして自分をさらけ出せないローラを余計にいとおしく感じていたのかもしれない。

一方で、トムがローラを抱きかかえて、そのときにローラが両脚を大きく広げてトムの体に巻き付けているという場面が2回あり、単に仲のよいきょうだいという表現なのかもしれず、フランスの文化的視点からは何の違和感もないのかもしれないが、きょうだいにしては親し過ぎる感じもして少しドキッとさせられた。

今回の舞台は、最初の部分を見ている間は、ベタな演出で、主演も生かしきれていないと感じたが、物語が進むうちに、戯曲に敬意を払いつつ笑いも取り入れて感傷的になり過ぎていない、好感の持てる舞台だと思うようになった(絶賛する舞台ではないにしても)。イザベル・ユペールは、思っていたよりも凄みのある演技ではなかったが。

正統派なところと斬新性のバランスが好感度のポイントだったのかもしれない。新国立劇場で最近上演されたフランスのオペラ『ペレアスとメリザンド』とはそこが異なる。

私のフランス語レベルは初級に達するか達しないか程度なので、字幕を読むのは少し忙しかった(また、一部のシーンで字幕が表示されるタイミングが悪く、言っているせりふとずれていたり、表示された途端に次に切り替わったりしてしまうところがあった)。直前に戯曲を読み直してから行くとなおよかったかもしれないが、細かい内容を忘れていたために、観劇中に展開の驚きも感じられてよかったのかもしれない。

『ガラスの動物園』は、ウィリアムズの初期の作品だが、ほかに私が唯一知っている彼の戯曲『欲望という名の電車』よりも好きだ。前者は、せりふの言葉が真っすぐで、未熟と紙一重のように思える部分もあるが、そういうところがかえって胸に直接響き、終盤は涙ぐんでしまう。

公演情報

日程:2022年9月28、29、30日、10月1、2日

会場:新国立劇場 中劇場

上演時間:2時間

スタッフ
【作】テネシー・ウィリアムズ
【演出】イヴォ・ヴァン・ホーヴェ
【制作】国立オデオン劇場
【フランス語翻訳】イザベル・ファンション
【ドラマトゥルグ】クーン・タチュレット
【美術・照明】ヤン・ヴェーゼイヴェルト
【衣裳】アン・ダーヒース
【音響・音楽】ジョルジュ・ドー
【演出助手】マチュー・ダンドロ

キャスト
イザベル・ユペール
ジュスティーヌ・バシュレ
シリル・ゲイユ
アントワーヌ・レナール

▼『ガラスの動物園』公演の新国立劇場サイト

▼『ガラスの動物園』英語台本

https://vcstulsa.org/wp-content/uploads/2019/03/theGlassMenageriefulltext.pdf

《L'aigle noir (dédiée à Laurence)》(作詞・作曲:Barbara「黒い鷲」)。知らない曲だったが、劇中歌はこの歌らしい(曲名をネット検索して出てきた動画)。フランス語の歌詞の言葉は難しくなく、ゆったりとした曲調なので、比較的、言葉を聞き取りやすい。しかし、内容は象徴的な雰囲気がする。黒い鷲が突然来て去っていったという歌詞の解釈はいろいろとあるらしい。


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