「誰がため」 (短編小説)
深夜2時。
閑散とした薄暗い事務所の中で、仄明るい島がある。
パソコンのモニターの明かりに照らされて、スーツ姿の女性がひとり座っている。
耳に付けたインカムを外して、小さくため息をついた。
凝り固まった右肩に手を置き、少し首を廻してみる。
ふと、窓の外に眼をやったが寝静まる街の景色の前に、大きな字が立ちはだかっていたのを思い出した。
窓に貼られた職場の名前を、改めて思い知らされる瞬間。
『命のホットライン』
折からの不況により、自殺者が年間2万人を超えているという。
ひとみの職場にも、昼夜問わず自殺願望を訴える人達から電話がかかってくる。
政府や地方自治体が設立したNPO法人で、全国にも点在している、この施設。
悩みを聞き、少しでも自殺を踏みとどまってもらおうとするのが、この『命のホットライン』である。
前の職場では、シングルマザーだと知った上司から大人の関係を迫るセクハラを受けていた。
関係を断ると、手のひらを返したように風当たりが強くなり、仕事すら与えられなくなっていった。
やがて退職を決意した時は、言い知れぬ敗北感で景色が色を失くしたのを覚えている。
懸命な思いで再就職先を探していたひとみに、知り合いが紹介してくれたのがここである。
ようやく見付けた仕事、どんなことがあっても手放したくなかった。
「私のようなものでも、誰かの命を救えれば……」
ひとみは、わが子供には申し訳ないとは思いながらも使命感に駆られて電話を受け続けた。
いつもなら頻繁にかかる電話も、今日は何故か一回も電話が鳴らない。
底冷えのするリノリュ-ムの床のため、欠かせなくなったひざ掛けを直しながら、ひとみはミルクティーで唇を潤した。
室内にパソコンから聞こえる冷却ファンの音が、いつもより響いている。
突然インカムに着信を示す電子音が耳を占領した。
--- はい、命のホットラインです。
「……こんばんは」
くぐもった子供の声。
小学生、しかも低学年だろう。
「……なんでも話、聞いてくれるんですよね」
こんな時間に、幼い子が電話を掛けてきてる。
それだけで、尋常ではない。
ひとみはゆっくりと、落ち着いた声を努めて出した。
--- 今、おうちの方は、いないのかな?
「……はい、今、ひとりです。 いつもですから」
敬語で話す電話の向こうの子が、どこか痛々しかった。
「電話のところにチラシがあったんで……」
命のホットラインでは、広告を配布していない。
官庁や公共機関に、パンフレットを置いてあるのでその事であろう。
「おかあさんは僕のためにガンバってるんです。 だから僕もいっぱいガマンしないと……」
どこか感情を押し殺しているような声。
--- お母さんとは、たくさんお話するのかな?
「いえ、おかあさんが帰ってくる時間は僕が学校に行ってるから」
母親は夜の仕事らしい。
--- そう……。 学校に行けば友達がいるから、少しは寂しくないね。
「……友達はいりません。 いつも仲間外れだし」
しまった。
「本当は学級委員もやりたくなかったんです。 でも、みんなが言うし、ガンバれば、おかあさんも……」
声のトーンが変わっているのに、ひとみは気がついた。
「いっぱいガマンしなきゃ おかあさんに心配かけちゃいけないんです。 ぼくがガマンしなきゃ……」
--- 偉いね。でもね、君はひとりじゃないんだから、我慢しすぎちゃしんどいでしょ。
静まり返った家で、「ぽつん」と受話器を抱えている、少年の小さな背中が見えた気がした。
「いつもひとりです。 ごはんもチンして食べるんで……」
--- そう……。
ひとみは、いつの間にか相談内容をタイプするのを止めていた事に気が付いた。
インカム越しに聞こえる少年の息遣いが、だんだんと不規則になっていく。
「ぼくがガマンすれば、ぼくがもっとガンバらないと……、でもぼくだって長者ヶ原君みたいに家族でごはん食べたい! ぼくだって学校で話しできないから、家でいっぱい話したい!」
小さな渡り鳥は逆風の中、懸命に羽ばたいていた。
群れから離れ、凍てつく心を持てる限りの希望で温め、鈍色の向こうに暖かい約束の地があると信じて。
その小さな翼が傷ついてる事も気付かず……。
「おかあさんに…… おかあさんに『がんばったね』って言って欲しい!」
ひとみは、掛ける言葉を失ってしまった。
脳裏には、ひとりの男の子の顔が浮かんでいた。
寂しそうに手を振り、視線を合わそうとしない眼が、ひとみを責める。
「さみ……、さみしい……」
叫びが嗚咽に変わり、か弱い年相応の男の子がそこにいた。
--- ……お願い、お母さんにあなたの気持ちの1/10でもいいから伝えて。 ひと言でもいい、手紙でもいい、お願いだから、あなたの今の気持ちを教えて。
いつしか頬を伝う熱いものを拭いもせず、溢れ出る想いが口をついて出てしまっていた。
傍らのマグカップのミルクティーは、とうに冷え切っている。
--- あなたのお母さんは、あなたを心から愛してるの。 たくさん寂しい想いをさせてしまった事をとても後悔してるの。 あなたの事を思って、楽ではない仕事も頑張っているのよ。 どうか、どうかそれだけは判ってあげて……。
「……ごめんなさい…… でも ありがとう」
少し安堵感に満ちた声を聞けたことで、ひとみの肩も落ちた。
ゆっくりと短針が早朝に向かって傾いていく今、子供にはつらい時間だろう。
少しでも早く寝る事を促すと、ひとみは愛しむかのように、ゆっくりと口にした。
「本日の担当は …… しんちゃん、お母さん明日休むから、ふたりで美味しいもの食べに行こう。 ううん、しんちゃんが好きなもの作るから、ゆっくりお話しよ」
電話の向こうで小さく息を呑む声が漏れた。
それで確信した。
電話の横に置いてあった、官庁や公共機関でしか入手出来ないパンフレット。
ひとみが職場から持ち帰ったものだ。
息子とは、いつもすれ違いで一日に顔を合わす時間があれば幸運というレベル。
少年が話した「長者ヶ原君」とは、担任の教師から聞いた同級生の名前ではないか。
誰かのSOSを逃さないように全身全霊で努めてたのだが、いちばん身近で大切なひとの声すら聞こえてなかったことに、ひとみは今さらながらに思い知らされた。
ガラス張りの駅舎から見えるシンボルタワーをぼんやり見つめて、ひとみは動き出した街の空気をいつもとは違って感じた。
滑り込む茜色の始発電車にいそいそと乗り込むと、ひとみはある顔を思い浮かべていた。
その顔は、ぎこちないながらも笑顔で飾られた息子の姿だった。
「救われたのは自分の方だったのかもしれないな……」
小さな山の稜線を明るく染め始めた太陽を見ながら、ひとみは久しぶりの息子との夕食の献立に思い巡らせていた。
「今日」という、新しい一日が始まる。
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