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跡がないから

 5歳児クラスのハヤトくんが降園後、父親に頬をぶたれた。

 ハヤトくんはその日の保育時間中、他の保護者の出入りに混ざって外に出てしまった。5歳児クラスになり保育室が変わったことで、また、年度初めのいくつもの変化で安定を崩し、もともと衝動性が高めで、かつ運動能力が高いので、抱えきれない不安は、してはいけないことをやすやすとやってのけるという行動になってしまった。
 担任のナナ先生は母親が迎えに来たとき、そのことを伝えた。ハヤトくんにはお話済みなので、叱ることはしないでほしいとも、もちろん伝えた。
 
 しかし帰宅後、「脱走」したことはいけないことだと捉えた父親は、ハヤトくんを𠮟りつけ、平手打ちしたという。

 ハヤトくんは翌朝登園してきて「パパがこうやって顔をぶった。痛かった」とナナ先生に話した。
 
 父親が子どもを叩くのは初めてではない。この園ではこの父親を数年間に渡り気にかけ、面談もし、こども家庭センターにもつないでいる。心理的な暴力も、実際に身体的な暴力もあるため、すぐに児相にもつなげた。父親にはメンタルの疾病があり、治療している。母親は父親を恐れパラレスで、父親から離れることも子どもを守ることもできない。

 そして今回の平手打ちだ。保育園は家庭には帰せないと判断し、児相に電話した。児相の担当者の回答は、
 「傷跡がないので一時保護できない」
だった。

 担任のナナ先生は、
 「これまでの経緯もご存知ですよね? 父親自身が首から上を叩いたと認めているのに、ですか?」
 と詰問した。

 「傷の跡が確認できない限り、動けないんです」

 ナナ先生は園長に申し出て、自分たちの資源だけで週末のハヤトくんを守ることを提案した。児相は土日は更に動けない、動かないと言ったから、保育士たちは時間外勤務と休日勤務をした。
 
 ナナ先生がぽつりと言った。
 「こうして、子どもたちが家庭に帰っていき、そして死んでいるんですね。でも、会見では、われわれはやるべきことはやっていましたと児相もよく言っていますよね。やるべきことって、なんですかね」


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