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赤い橋で待ち合わせ【D】

 町の片隅にひっそりと佇む赤い橋。そこでの待ち合わせは、何故こうも不幸の予兆を孕むのか……

 さて、では最後にこの話をしようか。
 今よりずっとずっと昔、まだこの橋が今のような造形でなかったころの話だ……その頃も、橋はあった。
 形は違えど、やはり赤い橋である。赤というよりは朱色、と言ったほうがその頃の風潮に即すだろうか。橋は小さく、目立たぬものであったが、やはり人々はそこを待ち合わせの場所に使ったのである。
 ある主従がいた。
 主は女、大層な醜女である。そばに常に影にひそむようにして控える従者がいる。小輔、その呼び名とは裏腹に体躯の大きい、精悍な若者であった。その端正な顔立ちはどこかの国の落し胤ではないかと噂されるが、定かではない。主の姫はこの美しい従者にひどく嫉妬し、事あるごとに虐めたと言う。
 夕間暮れ、その小輔がこの橋から身を投げた。世をはかなんでなどという事情などではなく、単に姫の機嫌を損ねた詫びにという形であった。
 姫の許嫁の若者が、小輔に懸想したというのである。真偽の程はともかく、これに日頃から短気な姫が激昂した。
「おぬしは、ほんにおぬしはっ……」
 扇で何度も打ち据えたあと、姫とはいえ大の男を足蹴にし、それでも腹に据えかねて川を指した。
「ほれ、死んで詫びぬかっ」
 はらはらと成りゆきを見守る側仕えの女たちが押し止めることもままならず、気づけば小輔は橋の上から飛んでいた。
 幸い橋梁は短く、川の深さもさほどではない。落下した小輔はそのままゆっくりと水中に潜り、川岸を目指した。
 視界の端にきらりと光るものがある。目を向けると、橋桁に近い場所に奇妙な水の濁りがあり、そこに何かたおやかなものがたなびいているのが見えた。
 目をそばめると、ふわりと笑う。それは女人の姿をかたどった、艶めかしい異形だった。
 あやかしに会えど目を合わせるな、昔からの言い伝えだったがどうしてそれを避けえよう。あやかしは、息を忘れるほどに美しかった。
 肺の空気がたちまちにして吸われるのを小輔は感じ、我に返った。小暗い水中に、もうあやかしの姿はない。慌てて、ふたたび岸を目指した。
 地上の濃い酸素を力のかぎり吸い込み噎せ込んでいると、ふと背を誰かの手がさすった。見やれば、美しい女が立っている。にこやかに、笑んだ。
 うなじの毛がさあっとそそけだち、小輔は脇差しを抜いていた。
「これ! 小輔! 何をしておる!」
 橋の上から驕慢な声音が降り、あわやというところで女の姿は掻き消えた。
 暮れ始めた橋の上で、醜女の姫がつんと澄ました顔をしている。ふうっと大きく吐息し、
「は、ただいま参ります」
 小輔は川に背を向けた。

「おぬしはほんにまどろっこしい奴じゃ」
 鬱々と陰る夜の闇に、かろうじて火明りに取り残されて、部屋は明るむ。
 気に入りの按摩が流行り風邪になったとかで、その夜は小輔が姫の脚を揉んでいた。なんとも恥じらいのないことではあるが、小輔は姫の乳兄弟で幼い頃から団子のように揉みくちゃになりながら育った仲なのである。口うるさい北の方に見つからぬ限り、誰も今更気にしなかった。
 姫の存外やわらかく美しい脚を揉みながら、小輔は延々と続く小言に耳を傾けるでもなく、無心……ふとした折に昼間のあやかしを思い出し、びくりと肩を揺らした。
「何じゃおぬし、何を気を抜いておる」
 敏くも察した姫が、じろりと小輔を睨めつけた。
 幼い頃から変わらぬ強いまなざしに、小輔はある種の憧憬と威光を感じている。確かに姫は顔立ちこそ醜いが、しかしその激しい表情の変遷は見ていて飽きることがなく、また生命力の発露そのものの輝きがあった。なんと、端麗な男ぶりを見せる小輔が、実のところこの醜女の姫に心底惚れているのだった。
「何じゃァ、その目はァ」
 ずいと額を寄せてくる姫に、小輔は微笑をもってして挑み、瞳に滲みかけた恋慕の情をいともたやすく呑み込んでしまう。そのさまを姫はまじまじと見つめ、ぬし何か隠しておるであろう、鋭い眼光を放った。
「まさか、姫様に隠し事などおそれ多い」
「いや、隠しておろう……ぬし、何を見た?」
 灯にぎらぎらと輝きを増す姫の眼光に射すくめられ、その炯眼に小輔は舌を巻く。まさか、今日の橋下での一幕を気に留められていたとは……無難にやり過ごしたと思っただけに、動揺を隠すのが後手となった。
「ふふ、わしの目は節穴ではないぞえ」
 醜女の微笑はいっそ凄絶、美女の微笑とは紙一重一線を越えぬまでも限りなく近づき、その輝きはいっそう増した。
 この目からは逃れられぬ。
 思いながらも小輔は必死に隠した。姫の身を案じるならば、漏らしてよい事柄ではない。あやかしに魅入られようがそれもこの身が滅ぶまで。たとえ自分自身が危ない目にあおうとも姫までには危害は及ぶまい、そう腹をくくっていたのだった。
「申せませぬ」
「何を生意気な」
 言質は取ったと言わんばかり、姫はにやりと顔を笑いに染めて、脚を揉む小輔の手をもう一方の脚で蹴った。小袖の裾がただでさえ捲れているのに、ことさらに捲れ、生白い腿が剥き出しになった。醜女とは言え顔ばかり、身体の方はなかば熟れかけた初々しい娘なのである。小輔の焦りもなまなかではない。
 やめてくだされと脚を避けるが、姫は攻勢をゆるめない。
 ひとしきり二人で縺れあったあと、床に崩れた。
「……申せ。何を見た」
 息を荒げながら、姫が言った。
 小輔は無言を守り、姫はゆるりと身を起こし、子供のような無邪気さをよそおって小輔の上にかぶさった。
「……良いのか、わしは嫁にゆくぞ」
 それが姫が小輔に与えられる最大限の言葉だったろう。しかも、小輔に返す言葉ははなから許されていない。
「明日の夜、今日の橋で」
 ささやきは微塵の甘さも含まず、姫の顔も朱に染まることはない。凛然たる主の、けれどその放埒な我儘が愛しかった。
 従者に発せられる言葉はない。小輔は静かに頷いた。

 主従の逃亡は厳かになされた。夜陰にまぎれて館を出る。馬が一頭に、松明。春とは思えぬ冷気がひたひたと二人の身をおかし、早くも先行きが懸念された。
 橋を渡れば使いの者が待っておる、姫の言葉を小輔は信じているわけではない。炯眼とは言え、所詮箱入りのお姫様、彼女が世間というものの正体を知るはずがない。おそらく、使いの者はいないだろう。姫は騙されたのだ。すぐに館に連れ戻されるーー
 それを知りながら、どうして俺は否と言わなかったのだろう。小輔は思う。不思議なことだ。一瞬でいい、ただ夢を見たかっただけなのか……
 やがて、橋が見えてきた。
 薄赤い月が空には零れており、その光が橋をぼんやりと浮かび上がらせていた。橋の向こうに続く雑木林、あの辺りがこの逃避行の終わりとなるだろう。思えば、胸が痛みに疼いた。ずっとこの夢を見ていたい、何故そんなことを思ったのか。
 橋にさしかかる寸前、小輔は馬上の主の腕を掴んだ。
「姫、降りてください」
 小柄な姫を掬い取るように地におろし、それから姫のかぶる小袖を奪い鞍にかけた。そのままゆっくりと馬を進ませる。
「罠か」
 早くも事態を悟った姫が、目を爛と怒りに光らせる。
 姫の腕を引いて、小輔は橋の下におりた。橋の影となり、そこには月光も届かない。真の闇を乱して、頭上から人々の声音が降ってくる。馬だけ残し主従が逃れたことを知った追手が、騒ぎ、右往左往しているのだ。どうかこのまま去ってくれ……念じながらふたり身を寄せ合っていると、ふと、空気が変わった。
 それは川の底、白昼に見たあの濁りーー目を向ければ、そこにあやかしがいた。
 夜にふわりと燐光を放つそれは美しく、見つめれば眼球から精を吸い取られそうな。くらりと脚を崩した姫を支え、小輔はどうにか持ちこたえた。
「去ね」
 あやかしに言葉が通じるかどうか。
 小輔の焦燥を感じたか、あやかしの気配が全身をもって笑った。それはけたたましい笑いだった。
 あやかしはするっと夜気をすべり、あっという間に小輔の眼前に。
 ずるりと捲れた唇からは獰猛な歯列が見て取れる。今にもよだれの滴りそうな肉厚な舌が紅に燃えて口中を蠢く。
 一瞬先の死を感じ、小輔は全身で身震いした。
「ぬし、下がっておれ」
 死の狭間にふいに割り込んだものがあり、それは限りなく近づきつつあった死を小輔から奪った。総じてその息吹を一身に浴び、姫は夜闇に咲く一輪の花となった。
 その華やかさに小輔は一切の思考を奪われ、息さえ忘れた。
 あやかしが生命を喰らうさまはあたかも飴玉を舐めるよう。
 優しく転がし、唐突に歯を立て噛み砕く。
 背骨を砕かれ、内側から圧され、姫は盛大に血飛沫をあげた。
「ぬしはほんに鈍くさいの、小輔」
 血反吐をはきながら、姫は笑った。
 ……あやかしは消えた。
 が、代わりに修羅が地を舞った。
 ふたりの姿を見つけた追手たちの容赦のない攻めに、小輔は全身全霊で応じた。
 どうせ今夜限りと思っていた命、姫が連れ戻されると同時に俺は露と消えるだろう、そう観じていた命、今更何を惜しむことがあろう。
 姫の亡骸を背に、小輔は舞った。

 かくして赤い橋は呪われる。
 この橋で行われる待ち合わせは全て微妙に不幸の色合いを含み、あるいは惨劇の味を含んだ。橋を染めた主従の血が呪うのか、それとも棲まうあやかしが呪うのか――いずれとも知れたものではないが、その不確かな小暗い予兆だけは橋とともに時代を超えて受け継がれ……

「……ごめん、お待たせ」

 今日も、尾を引く。
 ……赤い橋で、待ち合わせ。

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