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或る死体

 亡骸にたかるのは烏。近寄り難きをあえて蹴散らす。
 石畳の上に死ぬのは、ひとりの男で、私はその顔を知っている。昨夜、あられもない痴態をスマートフォンのカメラにさらした男は、昨日の熱など忘れ果てたように冷たく硬くなっていた。
 薄らかなまぶたは眠っているようなのに、その逞しい体躯はいまやなかば烏の巣となりかけ、内臓を欠き軽やかだ。はみだした腸が長々と地を這い回り、私の靴のそばに力尽きていた。
 まぶたを開ければ、優しい闇。そこに眼球はなく、やわらかな眼窩の闇が横たわっている。眼球を失ってなおその闇は弾力を保っており、ゆえに瞑られたまぶたも醜く落ちくぼむことがなかったようだ。しかし、これは一体……不可思議な球体を描く闇に触れ、私は沈思黙考した。
「あれの仕業だなぁ」
 隣で、狂人が呟いた。
 刑事気取りで事件現場に真っ先に乗り込む死体フェチ……つまりは私と同じ人種なのだが、彼の嗜好は私のそれとは少しばかり異なって、死体の出来上がるまでの経緯を夢想するというはなはだ不毛なものだった。
 その点、私の趣味は純粋だ。ただ、触れる。すっかり体温を失った体もよいが、私が最も愛するのは今まさに体温が尽きかけようとしている体。厳密に言えばそれは死体ではないが、限りなく死体に近いそれに私の熱は最もそそられる。
 隣で何事か呟きつづける狂人をよそに、私は烏らの荒らしたそこへ手を差し入れる。生命の神秘、生命の泉……けれどそこも今はむなしい。わずかの熱も残さず静まり返り、ただ沼のようにぬるつく臓器が私の手を濡らした。
 甘美の残滓がからむ指先に、ふと触れるものがある。蠢くそれを摘めば、蛆虫である。微細なそれを見つめれば、目眩。とろとろと蕩ける理性の破れ目から、男の記憶が忍び込んだ。
 泣きながらよがる男を押さえつけるのは、華奢な体つきの青年である。どうやってあり余る体格差を飛び越えたのか、酒か薬かそれとも甘い睦言だったか……女のような体躯に似合わず、青年の求愛は至って激しい。男の痴態を隅々まで見つめ、また見つめるだけでは飽き足らず、青年はスマートフォンのカメラを構えた。
 首を振り、抗う男の一挙一動を舐め取って、カメラの小さな瞳孔が輝く。そこには数十、数百の瞳孔が棲んでいる。カメラ越しに、男の痴態を眺める無数の目……そこに、私の目もあった。
 神経が高ぶり眠れぬ夜、私は極めて不謹慎な動画配信を嗜んだ。より悪趣味でより無意味なもののほうがいい。ともすれば擦り寄ってくる闇の魔力を拭い去ってしまうくらい刺激が強いほうがよい。
 ……半分嘘で、半分真実。私はこの年になってまだ己の性的嗜好を認めたくはないらしい。あえて言うなら、体格の良い男が一方的に犯される動画を私は好んだ。
 男は泣きながら目をつむり、唇を結び、凌辱者を無駄に楽しませぬように努力した。青年は手を伸ばし、瞑られた男のまぶたに無造作に手を当てる。指を眼窩の境目にあてがい、舌でまぶたを舐ると、男のうめき声。指をまぶたの狭間に捩じ込んで、無理やり開ける。
 涙でぐっしょりと濡れそぼる眼球のなんと美しいこと。青年はスマートフォンを放り出し、蕩けた眼球を思うさま吸った。
 ずるずると啜られる眼球はしだいに形をなくし、青年の形のよい唇に吸い上げられて、とうとう一滴も残らなかった。
 あとは狂気の沙汰、筆舌に尽くしがたい愛と欲望の痴態の限り。
 ……ああ、それで。
 昨夜、放り投げられたスマートフォン、被写体を失ったあまたの瞳孔はその音声のみを聞いて悶えるしかなかったが、男の記憶を垣間見、はじめて私はそれを知ることとなった。死せる男の眼球が失われているのは、昨夜の乱痴気騒ぎのせいなのだ……
「……目ぇは烏に食べられちまったかぁ」
 隣でささやかれる見当外れな推測を聞きながら、私は笑った。
「何処にあるか、知っていますよ」
 私は隣の狂人にていねいに教えてやる。指を一本立てて、彼の腹を指さした。
「……ここ。昨日の夜、食べたでしょう。もう忘れたんですか」
 狂人は一瞬目を見開き、何かを思い出そうとする……けれど、失敗。記憶は呼び覚まされず、彼は昨夜の蛮行を思い出せない。いや、そもそも思い出す気がないのか。毎度毎度、自分で殺した犯行現場に駆けつけて探偵気取りのお遊びを愉しむためにも、殺人の記憶は厳重に封印されているに違いない。
「じゃあ、私はこれで帰ります」
 私は告げて、横たわる死体を抱き寄せた。烏らの穿った穴からもろもろと臓器がこぼれ落ち、そこに具合のよさそうな虚無がぽかりと口を開けた。寝床に横たえ、そこになかば身を埋めたならば、それはどんなにか快い枕となることだろう。安眠の予感に、私は微笑み、帰路をたどった。

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