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春はぬかるみ、闇に鬼

 若草萌え出ずる頃、朦朧と彼女は起き出す。
 冬の間たっぷりと眠りを貪ったせいかかすかに腫れぼったい瞼をもったりと上げて、さあ眼前に映るあなたは誰だったかしらと僕を見る。
 おそらく名前さえ急には出てこないのだろう。しかし確かに知っている、瞳はじれったそうにそう告げる。

「あなたは……そうね、小鳥よ。天の鳥。あの蒼天からやって来たのね」

 僕は彼女が名前を思い出すしばらくの間を、そんなあざなを与えられて過ごすことになる。

  小鳥、と彼女は僕を呼ぶ。
 その声音のどんなに可愛らしいことか。僕の低い声音ではとても小鳥の声は真似できぬ。

 けれど彼女の声音と言ったらどうだろう。
 鈴を振るように愛らしく、ああ、あれこそが実に小鳥の声音ではないか。僕は常々そう思う。

 けれど彼女の小さな唇から、小鳥、とそう呼ばれるのも悪くはない。
 僕には過ぎたあざなである。
 僕はそのあざなを愛した。

 彼女を愛さない人間など、果たして存在するのだろうか。

 彼女の周りには始終いくたりかの取り巻きがおり、みんな等しく彼女を愛していた。
 彼女はその取り巻きの一人ひとりにも、あざなを付けた。
 よもぎ、かれくさ、ねず、すずしろ、しゃくし……彼女のつけるあざなは絶妙に彼らの性質を物語り、みな、おのおののあざなを気に入っていた。

※※※

 ある日、彼女が梅の花の宴を開いた。
 ようよう綻びてきた梅のつぼみをみなで愛でるという、なんとも気の利いた催しだ。
 みな管弦の遊びをしつつ、酒を召し、歓談などし、梅の花そっちのけで楽しい宴が催された。
 その宴の中心で、彼女はもっとも幸せそうに微笑んでいた。

 夜も更け、梅の花も漆黒の闇に塗り込められ、赤々とかかげられた松明の炎もその花の彩に届かなくなったころ、ふと、彼女が姿を消した。
 彼女は日頃から時折人々の群れから隠れるようにして姿を消すことがあったので最初は誰も心配しなかったのだが、それでも一刻ほど過ぎても彼女の姿が戻らないのをとうとうみんな心配し始めた。

 彼女のそば仕えの女房がおろおろと縁を行ったり来たりし始め、その姿を見た宴客らが何とはなしにそわそわし始める。
 彼女は一体どこに行ってしまったのだろう?
 冬の間、愛おしい太陽のように雲の向こうに隠れてしまい、その姿を出し惜しんだというのに、また何処ぞへ隠れてしまったというのだろうか?
 けれど、何故?
 春はもうとうに訪れ、ほとほとと板戸を叩き続けているというのに。

「……さま」
 よもぎが、彼女の名を呼んだ。
 それが皮切りとなったかのよう、みな口々に彼女の名を呼んだ。
 冬は決して口にしてはならなかった名だ。彼女の眠りを覚まさぬよう、みな心して彼女の名を胸に秘めていた。
 その名がやっと解禁になったかと思うと、涙ぐましく、春の訪れをしみじみと感じる。
 けれど今彼らの口を濡らすのは喜びよりも、不穏。
 また彼女を失ってしまうのではないか? かすかな疑念を胸に、みな落ち着かなかった。

「……さま。……さまぁ」
 みなの声が重なり、合唱のようになる。
 更ける夜の闇に、人を呼ばう声ほど奇異なものはない。聞くものはもちろん、呼ぶものも、そこはかとない不安に囚われ、ずるずると闇に引かれるようだ。

 彼女の返事はない。

 本当に何処へ行ってしまったのだろう。
 客人たちはそれぞれ所在なさげに立ち歩き、ある者は奥へ、ある者は庭へ彼女の姿を捜し歩いた。

※※※

 管弦の音はとうに途切れてしまっていたが、それでも、なお闇の澱のような縷々たる音が零れ続けていた。

 うぐいすだ――これも彼女がつけたあざなである。
 なんとかいう大臣の娘だったと思うが、詳細は定かではない。宮中で何度か顔を見かけたことがあるぐらいだ。
 名前は――やはり、僕も知らない。彼女に倣って、うぐいすと僕も呼ぶことにしよう。
「……あなたは何故、まだ遊びをやめないのですか」
 琴をつまびく彼女のかたわらに行って、僕は聞いてみた。
 彼女は気のない顔を上げ、何故そんなことを聞くのですか、と逆に問うてきた。
 そんなことを言われれば、僕も僕の質問の意図がよく分からない。
「……探すのはみながするでしょう。私は私のできることをするまでです」
「出来ることとは?」
「……分かりませんか?」
 それだけを言って、あとは黙った。
 うぐいすは静かに琴の音を零し続け、人々の騒ぐ夜の底にその音色はひどくそぐわしかった。
 うぐいす、とつけられたのは、おそらく管弦の名手ゆえだろう。
 心ここにあらずといった爪弾きなのに、うぐいすの琴の音はひどく心に染みてくる。
 昔の傷跡にもぐりこみ、じわじわと内側から響くような、そんな音色。僕はひとり得心して、うぐいすのそばを離れた。

 さて、彼女を探さねばならない。
 しかし何処に行ってしまったのだろう。
 僕のあざなの名付け親。
 愛しい人。
 冬の長きにわたる眠りから覚め、今まさに春を謳歌しようとしていた愛いひと。
 塗り込められた夜の闇でも、はっと鼻腔を打つその香で人々に春を知らせる梅の花のような……

「……さま」
 僕も彼女の名を呼んでみる。
 彼女の鈴降る声音には劣るけれど、小鳥と名付けられたことに僕は小さな誇りを持っている。
 天に踊る、僕は小鳥。
 うららかに春を告げながら、目覚めた彼女のかたわらに舞い降りる。

※※※

 闇は深々と更けてゆく。
 折から出てきた雲が、月の姿を隠してしまった。皓々と鏡のように隈なき満月を失い、僕たちは地を這う蟻のように惑っていた。
 とうとう泣き出す者が現れた。
 彼女が鬼に攫われてしまったに違いない、と彼は言うのだ。はこべ、と彼女にあざなをもらった男だった。
 涙はいともたやすく伝染する。
 四囲の客人たちも気が付けば、声を殺して泣いている。
 ひとり、ふたり、泣くものが増え、先ほどから続く琴の音に混ざり、陰々と地の気を震わせた。

 鬼、とはよくない言葉が出たものだ。

 思っていると、松明の火影がじわじわと弱まり、見る間に闇に吸われるようにして消えた。

 悲鳴。

 足音。

 ああ、誰か蹴つまづいたのか。

 何かが倒れるような音が立て続けに起こる。
 いつの間にか座敷の火明かりも消えていて、うっすらと身を食うような闇が寄り添っている。

 鬼、という言葉が音ではなく、奇怪な文字として眼前になまめかしく現れる。
 錯覚だと分かっていても気味が悪い。目をしばたたいて、追い散らす。

 また、鬼。

 また、鬼。

 払っても払っても、鬼という文字が眼前にまつわりついて離れない。

 再び、悲鳴。

 闇の底を這うように流れていた琴の音がふつりと消息をたち、それから、ざあっと雨が降った。
 春の雨にしてはあまりに強い、そうして生臭い雨だった。

 僕は、ひとつ予感する。
 もし今燭台に火があれば、この雨には色がついているのではないか。梅の花より鮮やかな、目を焼くような赤。
 夢想にはきちんと訳がある。
 雨はひどく生臭い。臓物のような、鉄錆のような。
 ぼたぼたと衣服を濡らしてゆく雨が生温かいのもいけない。僕の夢想を加速させる所以である。温かい、というよりは熱い。一瞬前まで誰かの身の内を巡っていたかのような。

 悲鳴。

 一度だけ。

 塗り込められた闇のなか、悲鳴は逃げ場がなく反響した。

 夢想はいまだ僕をとらえている。
 雨というのは普通外で降るものではないのか。
 ここは座敷の中だというのに、何故、僕は雨に濡れているのだろう?

 悲鳴。

 今度はふたつ。

 あとは静まり返って、けれど人々の恐怖の念はそこかしこに粘り、声を殺した彼らの存在を際立たせる。

 鬼。

 また、眼前にあの文字が迫った。

 僕は迷っている。

 逃げたらよいのか、叫べばよいのか、それとも蹲って隠れるべきか、身も世もなく泣くべきか。
 こんな時神仏の加護を祈ればよいのだろうけれど、あいにく一柱の神の名さえ思い出せなかった。

 ぱり、ぽり、と骨を噛むような音が響いた。

 食べられているのはうぐいすだろうか、はこべだろうか、それとも春とともに目覚めた彼女だったりするのだろうか。
 僕は細々と夢想するしかない。
 だって、何もできない。
 無力なのだから仕方ないではないか。

 やがて、すすり泣きが聞こえてきた。

 ずる、ずる、と何か重たいものが縁を這う音が聞こえてき、ゆっくりと僕の方へ近づいてくるようだった。

 目が闇に慣れてきている。
 闇のなか、ぬらぬらと淡い光を纏った何かが縁を着実に這ってきているのが見えた。

 雲が去りつつある。
 月が姿を現すのは間もない。
 僕は目を瞑ろうか、それともいっそ目を潰してしまおうか、ほんの一瞬逡巡した。

 その一瞬の間に、月が射した。

 あふれんばかりの月光に洗われ、闇は見事に払われ、地獄絵図が僕たち人間の目を焼いた。

 先ほど降りしきった雨はやはり赤く、しとど座敷やら縁やら濡らし、その中央にそれがいた。

 鬼、
 と、迫りくる文字よりまだ凄まじい。

 血を全身にかぶった異形は、僕の愛しい人によく似ていた。

 ーー微笑み。

 梅の花のような、暗闇にも薫る春の香。
 みなが冬の間中恋焦がれた微笑みだ。その微笑をもってして、鬼は僕の心臓をえぐる。

「……小鳥」
 鬼の口が、僕の名をささやく。

 呼ばれれば、僕はもう抗えない。
 それを迎えるために僕は両の腕を開き、瞼を閉じることもなく、満目の月光に溺れる鬼を招いた。

 ずるっ……ずる、

 血まみれの鬼は緩慢に僕の足に這いより、まず片足を抱き寄せて、頬を寄せ、かじった。
 鋭い痛みが下肢を襲うが今更それが何だというのだろう。これから全身、骨までむしゃぶられると言うのに。

 月光が眩いのが、何故だか救いに思えた。

 僕の死があきらかならば、四囲の客人たちもさぞ満足することだろう。彼らは彼らの分だけでなく、僕の分まで死を満喫するだろう。彼女の食道を降りて、やがて臓腑に達する愉悦まで。

 つまり、僕たちはすでに彼女のものだったのだ。

 彼女に新たに名付けられた時から、すでに彼女の所有するものとなっていたのに、うかつにも今まで気が付かずに過ごしてきた。その愚かを許してきた彼女の、なんと心が広いことだろう。

 彼女は、春。

 雪解けの春。

 長い冬を経、帰ってきた愛しいひと。

 彼女のひもじさを知るがよい。

 長い冬たったひとりで眠り続け、夢に閉じられたその侘しさを知るがよい。

 みな、何も知らなかった。

 だからこその、幸せである。

 彼女に食われる幸せ。
 彼女と一体になり、彼女の身の内に溶ける幸せ。
 こうして目を吸われ、すすられ、鼻梁をかじられ、臓物を貪られ、僕は彼女と一体になる。

 月光が眩い。

 もう目などないのにそう感じるのは僕が彼女に……ぱり、ぽり、ぽきっ……

 雨にぬかるんだ縁で、語るものはもういない。

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