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裏巫女

 深夜十二時、ひたりと時計の針が息を止めた。
 それは村の中心、庄屋の家からはじまり、時を経ずして村の隅々まで波及した。
 村の全ての時計の針が息を引き取ったとき、ちょうど少女は目を開いた。彼女の安眠を乱してやまなかった時計の針の死とともに、彼女の眠りは皮肉にもその役目を終えたようだ。
 見開かれた少女の双眸は、暗闇に爛と光った。村中で最も貧しい家屋の最奥、少女の存在は村の人々に見捨てられ襤褸のように転がっていた。少女となかば一体となるもうひとつの襤褸はそれは寝具で、かろうじて布の形態を保っている。
 この廃墟同然の家屋まで、時計の死が到達したことに少女は素直に驚いていた。村八分にされようが、この家屋も神の目からすると立派に村の一部であるらしい。
 少女は身を起こし、四囲を見回す。電球をもたないこの家に、光はなく、夜は息もなく跋扈していた。濃度の濃い闇を吸い込み、その毒気の強さに少女は一瞬の目眩を覚える。けれどそれも一瞬、少女は数度の瞬きのうちに落ち着きを取り戻した。
 褥から抜け出た少女の身体は、すでに少女を脱している。みっしりと肉の濃い、やわらかな身体をしている。少女は素裸であった。
 素裸は少女の意志ではなく、神の意志だ。村のはずれ、鎮守の森、いまだ原始の香りをまとうあの森に住まうあれの意志。
 村人らは、神をあれと呼んだ。本当の名を語れば喉が潰れる、聞いたものは鼓膜が破れるーーならばその姿を見たものは?
 少女は手探りで破れ障子を開けると、外気に顔をつきだした。眼球を洗う闇はぬめり、その感触に少女はぶるりと身を震わせる。
 新月。
 陰々たる夜を照らす月はなく、星もない。このような夜を神はあえて選別したのだろう。村中の人々の目が塞がれるこの夜を。
 少女の眼球は夜を吸う。繋がらぬ視神経は幼い頃から役立たず、少女の網膜に像が結ばれたことは一度もない。
 少女の視野はゆえに想像に満ち、色ならぬ色に溢れ、愉悦に濡れた。うつつに汚されぬ双眸を神が欲したのも無理ないだろう。少女はこれから神の嫁となる。
 ある男が、少女の鼓膜に囁いた。神の嫁とは名ばかりよ、と。襤褸のような褥に忍んでくる男のことを少女も憎からず思っており、男の言葉が嘘でないことも知っていた。少女は男の太い胴を抱き、絞め上げた。
 男の肉の一部となりながら、少女は神の嫁とつぶやいた。神の嫁、それは供物、体の良い厄介払い。そうであろう、そうであろう。それが何だというのか。
 男はしばらくして姿を見せなくなった。
 独り寝の夜の数を少女が数えたことはない。けれど月は知っている。銀色に膨れ、しぼみ、膨れ、しぼみ、ひとり寝床にうずくまる少女の影を見ていた。
 その月も死に、村は夜の瘴気の底に沈む。神が少女を欲する。時計の針が死ぬ。
 少女は褥を抜けて、外へ。
 夜露を受ける素足は冷たい。草葉の生々しい踏み心地。盲たるものに闇がなんの意味を持とう。常に浮遊する闇の中に少女は生きている。迷いのない足取りで、ゆるりと夜を泳いだ。
 ふと、足元から声が立ちのぼる。まるで薫るかのような声音には覚えがある。
 神の嫁とは名ばかりよ、少女の鼓膜に囁いたあの男。村八分の掟を破って殺された、少女の最初で最後の男。
 少女は蹲ると、草葉の陰から白いものを拾い上げた。目明きならばこの闇でそれが人の指とは夢にも思うまい。だが、少女は知った。それは、あの男の指だった。
「生きて帰れると思うな」
 神の嫁とは……の言葉の後に、男は確かそう言った。少女の身を呪う前に、言葉は男自身を呪ったのか。鼓膜に残る男の囁きをなぞりながら、少女も同じ言葉をつぶやいた。
「……咲音」
 男の指は少女の名を吐息し、それきり音を失った。
 少女は指をつまみあげたまま、しばらく身じろぎしなかったが、おもむろに口を開けると青褪めた指をほおばった。
 そのまま飴玉のようにしゃぶり、わずかに腐りかけた肉片が唾液に溶けると、息を止め、飲み下した。存外太く長いものが喉を通ってゆく感触に軽くえずき、それでも吐き出さぬように口を押さえた。無事、指は胃の腑に辿りついた。
 少女は腰を上げ、先ほどよりよほど迷いのない足取りで社に向かった。
 迷いがないにも関わらず、全身が右へ左へと振れるのは、胃の中の指がさぞ重たいからだろう。うつくしく夜に匂う肉が蹌踉と歩むさまは妊婦さながら。
 社には、神が棲まう。
 夜、踏み入れてよいのは巫女だけだ。白昼の巫女ではない、夜の巫女、神の贄、神の嫁。少女は重ったるくしずる身体を引きずりながら、かろうじて鳥居まで辿りついた。
 白昼から陽を寄せつけぬそこは、夜に至っては人智を越える。鬱蒼と絡み合う闇、闇、闇、模糊たる非言語。そこには圧倒的な無量が横たわる。その中央に、神がいた。
 神は少女を見て、眉というものがあるならばそれらしきものを潜めた。少女の不貞を嘆いたのかもしれない。腹に指を沈めた少女は、もう無垢ではない。
 ふらふらと揺れながら、少女は闇の中央へと近づいた。神気にあてられ奪われるはずの視力は少女にはなく、逆にそのまばゆい闇に導かれ、繋がらぬはずの視神経がいっせいに疼いた。じりじりと暴れ、芽を伸ばし、繋がり、繁茂し……
 あっ、と少女は悲鳴を上げしりぞいた。
 夜露に護られた足裏がこのとき初めて傷つき、少女は例えようのない痛みに貫かれた。それは破瓜の痛みに極めて似る。
 膝がくだけ、少女はその場に崩れ落ち、遠い闇のむこうに霞む神をほんの一瞬かすめ見た。
その姿を反芻する間もなく、破水した。
 がくがくと膝が笑う。背がずしりと重く、股の合間からほとばしる水に恐れおののき、少女は声もない。
 腹の底から、声が聞こえる。薫るような声はあの男のものか、それとも赤子のそれなのか……どちらも、と少女は思う。
 少女の貪欲さを笑うように、ほとばしる水は量を増し、時折血の色をまじえた。
 ぼとりと、白いものが地に落ちる。
 ふやけた饅頭のようなもの。少女の股ぐらから産まれるにはあまりに大きい。ぬるぬると羊水をまつらわせるそれには、よく見れば黒々と光る髪。ざんばらと散るその髪を割り、見開かれた双眸が現れた。
 少女は盲ゆえに一度も男の顔を見たことがなかったが、繋がった視神経にほとばしるほとんど肉塊でしかないその腐りゆくものが網膜に像を結ぶなり、自分が生命を賭して生んだものが情夫の死に顔であることをさとった。
 おどろに歪んだその顔が、何ごとか喋ろうと引きつれ、かなわず、えずく間、少女はまじまじとそのさまを眺め、生首というよりはもはや肉塊に近いそれを、持ち上げ、胸に抱いた。
 ……睦言が交わされたのか、どうか。
 ……そも、生首は言葉を喋れるのか。
 短いしじまが模糊たる闇を焼き、わずか、焦がした。
 人間どもの陳腐な愛憎に、神は当然ながら微塵の興味もない。酸鼻を極める逢瀬に勝手ながら終止符を打つことにした。
 神の吐息ひとつで、闇はわらわらと蝟集し、蠢き、靄気を一段と深めた。
 蒙昧と濃くなる闇がやわやわと男の死に顔に沁み、生首を掻き抱く少女の胸に秘めたる鼓動をもとどろかせた。
 あ、少女は声を上げ、眼球に致命的に沁み入る闇の気配に抗議しようと眉を吊った。
 けれど、それが最後。
 少女がこの世で形あるものとしてなし得た最後のふるまいとなった。
 男も少女も露と消えた。
 あとにひとつ、ぼたりと落ちた生白い指だけが残った。
 腹のくちくなった神は闇を深め、胃の腑の底、極めて曖昧になった男と少女の残骸を手持ちぶさたにもてあそぶ。
 とろとろと蕩ける首はもはやどんな意志も持たず、持たぬはずなのに、時折もろもろと崩れる声音で少女を呼んだ。
 少女は少女で、男を探して闇を掻く。かりり、かりり、かそけき音を鳴らして、いつまでも終わりそうにないので、神も早々に飽き、子を産むことにした。
 神に性別などあろうはずもない。男根も女陰も思うがまま、産みたければただ股ぐらを開けばよい。
 破水。
 天から滴り落ちる怒涛の雨水に、闇は歓喜をもって震え、あたかも吠えるかのごとく地を鳴らした。水は村を襲い、浸し、渦とし、轟々とひたすらに荒れ狂った。庄屋の家も、村の片隅の廃屋も残らず攫い、跡形もなく村を拭った。
 雷鳴と、阿鼻叫喚。
 それが産声。

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