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深夜の暴走

 車輪の音が軋む。
 車体は夜の漆黒を暴走していた。白昼の穏やかさなど忘れ果て、電車は快速特急顔負けの凄まじい走行をしていた。
 フェンスの隙間から臨みやる線路の景色のなんと恐ろしいことか。ぽつりぽつりと間遠に灯った街灯だけが、その証人となるのだった。
 いや……もう一人いる。街灯の明かりの輪からほとんどはみ出して、なかば夜闇に擬態し、けれども有機物の気配を消しきれない……それは少女。
 まだ十にも満たないだろう、幼さを残す顔立ちに、あどけなさは拭われ微塵も残らない。筆で刷いたような嗜虐の色のみ光る。
 片腕にぶらさげたランドセルのなんと重そうなこと、ぶくぶくに膨れ上がり、四方から飛び出すのは何なのか……黒々と絡み合う頭髪、無様に折れた腕、あるいは脚……異様なものをぶらさげながら、少女は平然としている。
 真昼間なら、良識のある大人たちが駆け寄って彼女を保護したかもしれない。けれどその大人たちも今は夢の中だ。少女を庇護するものは何もない。ただ夜闇になすりつけられた紙魚、それが少女。
 少女は目を見開いている。瞬きを忘れ去った眼球に塵埃が忍び寄る。彼女は何を見ているのだろう? 暴走する電車? しかしその車体のいかに長いことか。
 初めの車両が通り過ぎ、もうどれだけの時間が経ったろう。終わりは永遠に姿を見せず、電車は恐るべき長さの巨躯をほとばしらせ続ける。
 少女は、それを見ているのか? ……何のために? もしかして、乗りたいのか?
 少女の心の闇に手を伸ばしたのは良識ある大人たちでなければ何なのか。街灯に群がる蛾? 思考など持ちえぬ虫どもも、少女の境遇に哀れの情を兆すのか?
 少女は乗りたいのだ。眼前を走り続ける奔放な電車に駆け込み、今すぐこの場を逃げ去ってしまいたい。けれど電車は一向に止まらない。終わりもない。ゆえに、少女はただ目をみはってそれを見つめ続けるしかないのだ。いつか来る車両の終わりを願って。
 それは一縷の望みに過ぎない。たとえ車両に終わりが来たところで、少女は暴走する電車に乗れるはずもない。フェンスを越えて、がむしゃらにむしゃぶりついたところで無駄だろう。けれど、少女はそうしたい。そうするしかもう選択肢はない。
 世界は少女にとって、割れたガラス片のようにかしましく、鋭利だった。その手触りだけでも日々生命を消耗してしまう。少女は、旅立ちたかった。
 学校で、教室の隅で、彼女は流れくる噂を得たのだろうか? それとも深夜蹲る庭先で、電車の轟音に気がついたのだろうか?
 轟音……それが旅立ちの合図。少女にとって、唯一の救いが訪れたのだ。
 しかし線路にたどり着けば、それも儚い。とてもではないが暴走する巨躯が、華奢な少女を受け入れるとは思えない。どころか、終わりがない。
 終わりがないということは、初めもないということだ。それはつまり絶望ということではないだろうか?
 少女は、眼前の光景に巡り巡る日常の輪廻の諸相を見る。この世はなんて理不尽なんだろう。白昼の悪夢は、夜の帳におかされてなお忌まわしい輝きを失わなかった。
 教室で、小さな家の軒の下で、日々繰り広げられる惨劇の数々を少女はあえて数えようとは思わない。数えなければ、それは無。少女さえ目を瞑れば、それは無。世界の安寧は保たれ、人々は少女を忘れ去り、いやそもそも知ろうとさえしない。
 だから少女は旅立とうと思ったのだ。深夜の電車の立てる轟音に耳を澄ませたときから、無意識にそう決意した。
 あたしは、ここからいなくなる。
 クラスメイトたちの眼差しも、母親のてのひらも届かない場所。ずっとずっと、遠いところ。
 少女でさえそれがどこなのか知らなかったが、猛り狂う電車の轟音はその場所の予感をはらんでいた。少なくとも少女はそう信じた。
 信仰は時に人を救い、時に人を殺す。
 線路を隔てた向こうがわ、ちょうど少女に向かい合うその場所にひとりのくたびれた男が立っている。街灯の明かりがかろうじて届くその場所で、やはり荒れ狂う深夜の巨躯を眺める。
 男は疲れていた。
 四肢はいまにも朽ちそうに垂れさがり、目には脂がこびりつき、眼球は震えながらひからびていた。かわいそうに男は、四十七年の人生を今更ながら悔いているのだった。
 就職も結婚もうまくゆかず、くたくたに疲れ果て、それでも世界に謀反を起こせず、そんな自分に呆然とし、深夜、こんな場所で意味もなく暴走するものを眺めている。
 昨年彼のもとを去った妻は、果たして彼の顔を覚えているだろうか? 彼がまだ結婚指輪をはずさぬことを知ったらどんな顔をするだろうか? 想像するだに忍びないので、彼は想像しなかった。
 離婚届を差し出した妻の指に、指輪はなかった。浮気相手と再婚するのだと言う。彼が見たこともないような幸せそうな顔はいつまで続くのだろう? 永遠? まさか。
 彼が指輪をはずさないのは、べつだん未練があるわけではない。長年の時を経、指輪は彼の指と一体化してしまっていた。皮膚を破り、指輪は太々と根を彼の骨へと突き立てる。
 彼は、妻の指輪もそうなっているのだと思ってやまなかった。幻想にすぎなかった。妻は彼を捨て、新しい世界へとすべりこむ。
 何故生きているのか、単純に分からなくなった。昼が怖く、夜が来たら心底安心した。けれど眠れないので、寝床で死体のように転がっていると、ふと轟音が聞こえた。
 誘われるようにして、男は線路へとたどり着いた。終わりのない暴走をえんえんと眺めながら、男の心はたとえようもなく鎮まってゆく。目を開けながら眠っているかのような、生きながら実はもう死んでいるかのような、底知れない安心感。それを感じながら、男はうつろな袋へとなってゆく。
 線路越しの彼岸には、少女。
 彼岸と此岸はわかたれて、電車の巨躯にへだてられ、互いにその存在は知りえない。けれど、不思議なことに少女は男は彼を彼女を知っているような気がした。
 男の指に指輪が根を下ろしたように、少女のランドセルに未知のものが詰め込まれているように、それは既定事項のひとつである。
 絶望を知ったものは互いに互いを知る。見ずとも知る。独特の嗅覚により、知り、繋がるのである。意識にそむいて、無意識裏に。
 彼らはもはや他者ではない。少女は男であり、男は少女であり、それは分けがたい何かであった。
 少女の指がフェンスに伸びた。
 男の指もフェンスに伸びた。
 細い鉄線をつかみ、ゆるやかに体を引きあげる。
 そのとき、とうとう車両に終わりが訪れた。ごうっ、と最後の轟音を残し、途端に耳が痛いような静寂。轟音の余韻にふるえる鼓膜に、息の音。久しぶりに感じた有機物の気配に、少女は、男は、はっとした。
 彼らのわずかな交歓も許さず、ぬるぬると闇を這い、街頭の明かりの裾から電車の巨躯が後退してくる。ちょうど、彼らの眼前。
 彼岸と此岸とで再び分かたれることはなく、何故なら、長蛇のごとく線路にしなだれる電車の巨躯がまばゆいばかりの明かりを灯し、なおかつ微かな空気音とともにその内臓を分け開いたからである。
 細い明かりの渦が絶え間なく夜の闇に放出され、開きっぱなしのドアが震えた。不意に曝け出された電車の臓物は恐ろしいほどに無機的で、また明るかった。
 少女は、男は、おそらくその巨躯の行為の意味するところを正確に知り、ゆるやかにフェンス越えを再開した。
 少女が男が線路に降り立つ。先刻までの暴走が嘘のように電車は静まり返っている。
 電車の開け放たれた扉越しに、車内の煌々たる明かりを含んで、少女は男ははじめてそれぞれの眼球に自分自身の亡霊の姿を映したのである。
 それは、男だった。
 (それは、少女だった。)
 それは、くたびれていた。
 (それは、みすぼらしかった。)
 次々と湧いて出てくる言葉はしかし虚無だった。だってそうだろう、少女は男で男は少女なのだから。
 あたかもそれはひとつの骨から派生した、やわらかな肉と老いた肉であった。少女は男は知っている。これがあたし、これが俺だ。
 鏡から抜け出た自分の姿を目にしたら、人は一体どうするだろう。その答えは、今から。
 まず少女が微笑み、男がそれを受け、少女はランドセルを捨て、男はみずからの指をちぎり取り、それからことさらにゆっくりと扉に近づいた。
 車内へと。
 夜闇に燦然たる車内は、まるで狂気。少女と男が昼間さんざん喰らいつくされたはずの狂気はしかし夜闇にもやはり生きていて、時刻など関係なし、やはり二人を喰らう。
 本当は二人は包容したかったのかもしれない。哀れな自分の姿を見、慈しみに濡れたてのひらでその汗ばんだ頬を撫ぜてやりたかったのかもしれない。
 けれど、そこにもそれは満ちていた。
 光。
 白昼に満ちるものと同じ類の光ーーああ、夜でさえもそれに触れねばならないのか。もはや身体は屍のように疲れ切っていると言うのに?
 落ちる、涙。
 少女のものか、男のものか。
 ぽたりと車内の床にしたたり、それから。
 ふたりは白昼の狂気に身を染めた。
 ランドセルは捨てたのに、指輪は指ごと引きちぎったのに、白昼は彼らを離さない。落ちるとしたら、血の涙。
 少女の包容は激しい。男の包容は凄まじい。けれど勘違いしないでほしい。つまり、こうするしかなかったのだ。
 少女の眼球は男を映し、男の眼球は少女を映し、この夜、はじめて安寧に濡れた。
 殺し合いは長くは続かなかった。
 それはある種の包容の形式だったに過ぎない。初めから終わりが見えているふるまいだったのだ、救いがあることに。
 少女の小さなナイフが男の胸をつらぬき、男の存外やわらかそうな手が少女の首をしめた。
 燦然たる光はいまだ白昼に呪われるのに、そのした、ようやく彼らは解放された。
 こきりと小さな音を立て、少女の首の骨は砕けた。
 ぶるぶると男の心臓は最後に大きくふるえ、止まった。
 燦然たる車内はかくして微動だにせぬ静寂が支配し、その中央に見るからに奇っ怪な有機物のオブジェが残された。それは少女、あるいは男、もしくはその両方であり、またそのどちらでもなかった。
 死にゆくひとつの塊と化した少女は男は、そもそももう有機物とも無機物とも断定できず、その狭間にぶらさがる正体不明のものでしかなかった。正体不明のものはまだかろうじて息をしていた。
 どくどくと流れゆくどす黒い血液に、燦々と降りかかる銀色の光が疎ましい。いや、もしかすると羨ましいのか……乾きゆく眼球はもはや光を認識するのもかったるく、男は全身に波及する心音だけを聞いていた。
 男の大きなてのひらが、少女の細い首に食い入っている。一本欠けた薬指の情景が滑稽だ。めりめりと音を立て、微細に砕けた少女の骨をもっとこまかく粉砕した。
 極めて薄い酸素濃度が、少女の身体をこれまでになく躍動させていた。見る限りそれは静止以外の何ものでもなかったが、体内は激しく痙攣し、血脈は轟々と鳴っていた。一度、びくりと背が跳ね、少女は何かを探すように手を伸ばした。ランドセルはもうなかった。
 そのようにして、短い死の情景は幕を下ろした。呆気のない幕切れに、観客がいたなら暴動を起こしていたかもしれない。幸いなことに、観客はいなかった。煌々と明るむ車内の中央に、亡骸が残された。
 ……無音。
 しばらく痴呆のように静まり返っていた車内が、しかし揺らいだ。ふっと吹き消されたかのように全灯が消え、再び巨躯は全身にこだまする暴走への渇望を思い出した。
 それは渇きに似ている。
 満たしても満たしても、喰らっても喰らっても、走っても走ってもまだ足りぬ。ぶるぶると震える巨躯はそれを拒めない。湧き上がる衝動は、暴走の前駆。さながら痙攣するかのように、長い長い巨躯は震えた。
 車輪が重い粘りを残しつ、ゆっくりと回り始めた。始まればそれはたちまちにして、興奮の坩堝、衝動の渦、電車はふたたび絶頂へと上りつめ、さあ、車体が動く。走るーー
 かすかな空気音とともに、扉が閉まる。
 夜気を完全に拒んだ車体のなかは真闇、もう少女も男もなく、ぬめった闇が波打つだけだ。
 がたん、車体が前へ、車輪は絶叫に似て軋み、深夜の暴走は始まり、そこには何らの哀れもない。有機物はみな、溶けてしまった。夜、あらゆる彼らの夢を抜け、電車は無機物の頂点たりえんと走るのか。胃の腑にはふたつの無念、有機物の残骸。白昼から拭われた彼らの墓に、その胃の腑はふさわしい。
 長い暴走が始まる。

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