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悪に流される人々

[詩篇 58:3,4,5]

悪しき者どもは母の胎を出たときから踏み迷い偽りを言う者どもは生まれたときからさまよっている。彼らには 蛇の毒のような毒がある。耳の聞こえないコブラのように 耳を閉ざし蛇使いの声も聞こうとしない。巧みに呪文を唱える者の声も。

今日の聖書箇所
詩篇58:1〜11

今日は詩篇58篇から恵みをいただいていきたいと思います。

この詩篇は内容がかなり難しい詩篇です。

ダビデが正義を行うべき統治者、支配者、権力者たちが不義を行なっていることに対して神の裁きがあることを宣言しているのです。

恐らくサウル王に迫害されていたダビデがサウルの周りにいる権力者たちからも無実の罪で訴えられ、謀略によって苦しめられていたのではないかと思います。

本来は自分を助けてくれるべきさばきつかさ、裁判官のような人たちもサウルの悪に沈黙して、サウルの悪しき行いを放置してそれに加担していることに対して神は必ずそれを裁くと言っているのです。

[詩篇 58:1,2]

力ある者たちよ おまえたちは本当に義を語り人の子らを公正にさばくことができるのか。実に おまえたちは心で不正を働き地で手の暴虐をはびこらせている。

罪というのはただ悪を行うことだけではありません。悪に対して沈黙していることも罪だと言うことです。サウルの周りにいた権力者たちはダビデが無実であることを知っていました。間違っているのはサウルであることを知っていたのです。

しかし彼らはサウルを恐れて黙っていたのです。自分の保身のためにかえってサウルの悪に加担していったのです。そしてそのようなことは今の時代もよく起こることであり、私たちにもまた起こってくることです。

それはおかしい、間違っていると思っても人を恐れてそれを言わないまま終わってしまうことが多くあります。面倒を起こしたくない、対立したくないという思いから言うべきことを言わないままでいることも多くあるのではないでしょうか?

言うべきことを言わないまま、その場の流れに流されてしまうことも罪なのです。それに勝利するためにはどれほどの愛と力と勇気が必要でしょう。この罪に打ち勝つためには真実に祈るしかないのではないでしょうか?

またこのような権力者、統治者、支配者たちはもう聞く耳を持っていませんでした。どんなにダビデが真実を話しても聞く耳を持ってはくれなかったのです。

自分で考えることも、自分で判断することもなく、ただ悪に加担していくだけだったのです。

そのような人たちはもう悔い改める可能性がなくなってしまうのです。それゆえ神の裁きを待つしかなくなるのです。

主は私たちにも多くの方法で語ってくださいます。しかし私たちの方で聞く耳がなければどれほど語られてもそれには何の意味もありません。私たちもまたすぐに偏見や固定観念に囚われてしまいます。自分で考えることも、判断することもなく、あの人がああ言っているから、この人がこうしているからとそれを正しいことかのように受け取ってしまうことが多くあるのではないでしょうか?

あの人がこう言っている、あの人がそうしていると言うことの前に主がどう言っているのか?御言葉が何と言っているのかを考えることができなければ、主の御声を聞くことなどできなくなってしまうでしょう。

霊の耳が閉じてしまっていないか、誰の声を聞いて、誰の声に従っているかをいつも点検しなければならないのです。

悪しき者に同調し、それに流されてしまっている者たちは自分は何もしていない、自分はただ指導者に従っていただけだと言い訳したのではないでしょうか?

しかしそれに対してダビデは呪いの言葉で応答するのです。

[詩篇 58:8,9]

彼らが 溶けて消え行くなめくじのように日の目を見ない死産の子のようになりますように。おまえたちの釜が茨の火を感じる前に神は それが緑のままでも 燃えていても等しく吹き払われる。

恐ろしい言葉です。茨の火とは彼らの悪が増大していくことを表しているようです。
悪がますます増大して、それに対して何の裁きも下されないと思われる時にある日、突然神の裁きが下されて、全てを終わらせてくださいとダビデは呪いの言葉で祈るのです。

詩篇の中には呪いの詩篇と言われるものがあります。それはそのまま新約時代には適用できないもので私たちはたとえ敵であっても祝福すべきです。しかし新約聖書においても霊の耳を閉ざし、神の御言葉を聞こうとしない者たちは呪われていると明確に記されているのです。

[マタイの福音書 25:41,42,43]

それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』

神の御前には知らなかったと言う言い訳は通用しないと言うことです。私たちは聞く耳を持つ者となり、神の御言葉に耳を傾け、御言葉の一つ一つに従って祝福された者となっていきたいと思います。

[マタイの福音書 25:34,35,36]

それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』

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