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『頂きオフリス・アピフェラ』






記事を読む前に、下に貼ったオフリス・アピフェラの4枚の写真を参照してほしい。
この4枚が全く同じ写真である事は、ある程度賢ければわかるだろう。
それの分析、それに依存してしまう理由、乗り越え方を他にはなく誰も知らない書き方で書き上げた。

「今日もオフリス・アピフェラのご利用、誠にありがとうございます。」


人生という列車旅の車内放送で、先に行けば行くほど流れるこの放送を、これよりジャックする。


オフリス・アピフェラ



              オフリス・アピフェラ


               オフリス・アピフェラ



     オフリス・アピフェラ






運動をしっかりすれば、言語化できないにせよ、この文章は皆分かるので絶対に読まなくていい。死と暴力が隣にあるような場所で運動するだけで分かることのみを書いている。











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オフリス・アピフェラ、メーヘレン、ロプノール湖。私は、熾烈な大学受験戦争時代これら3用語に囚われていた。朝、女の子と性行為を済ませた後に、オフリス・アピフェラを想起し、昼、スタバで勉強している間にスタバの商品の値段をみてメーヘレンを想起し、夜、寝落ち相手が風呂に入っている間にロプノール湖を想起した。これら3用語は、広告とブランディングの幻想により成立するポスト・モダンの世界において常にメンヘラ彼女のように屹立していたのである。
オフリス・アピフェラは擬態する。蜂の雄に擬態するそれは、蜂の雄の生殖本能を刺激し、花粉を運ばせるという仕事をさせるようにし向ける。しかし、蜂の雄がどれほど興奮して生殖活動をしようともそこにあるのは幻想に過ぎない。それは人間の男性が女性に対し、興奮するのと同じレベルに無意味なことではないだろうか??我々は、シミュラークルを見ている。性欲という根源的欲動がある1つの記号として脳神経に働きかけ、幻想的風景を作らせている。

しかし、そこにあるのは、嘘と支配である。

性欲により恋愛感情がアポステリオリに捏造され、生産された子供という商品は、工業社会化=近代社会化に伴い急激に普及し大学院・大学・高等師範学校などの高等教育機関を代表とする学校教育という工場を経て、社会という市場に出荷される。

彼らに待っているのは親と社会からの支配のみである。



そこで、メーヘレンは、華麗に哄笑しながら登場する。曰く、人為的な記号消費をしているだけであればもはやそれがオリジナルかコピーであるかはどうでもよいーーみせかけさえ作れば、「彼ら」は大いに喜び、余りに多くの貨幣を手放すであろうというのがメーヘレンのパースペクティブである。陽キャ/陰キャ=チー牛、高身長/低身長、高学歴/低学歴、普通/変、健常者/障害者、イケメン/ブサイク、利他的貢献/利己的自己満足、勝ち組/負け組、金持ち/貧乏人ーー記号はなんでもよい。人間さえも商品化し、人格さえもキャラ化する事で値段をつけるオフリス・アピフェラが如き「空」の社会に、ディズニーランドのような幻想性を注入し、色付けするのがメーヘレンである。我々の諸行為に、鼻から意味など1つもない。その無意味としての無意味を、意味があるものとしての無意味に変え得る唯一の希望がロプノール湖である。これはまさに、「

記憶を全てなくしてもそれでもなお、人は立って戦い続けられるか。


」問題と相似形を成している用語である。ロプノール湖とは、黄金で栄えたが、さまよえる湖であるロプノール湖が移動した事で、生活基盤が崩壊し、そのまま滅亡した国である楼蘭王国にあった幻の湖である。失って初めてわかる最も大事なリソースとは、やはり水であり、それは水のように人に浸透するがすぐに流動してしまうという点で水に酷似している記憶であるに違いない。水がなければ、そして記憶がなければ人は生きていく事ができない。しかし、これらは、褒められることも無く、なおかつどこにでもあり、気づいたら体内に存在している。記憶がなくなるともはや人間は、廃人と化す。その人をその人たらしめているのは記憶の他にない。それが故に、記憶をなくすということは、他のどのような拷問よりも辛く過酷な試練である。『神様は言う通り』という作品に、DICEというゲームがある。これは、まさに、私の心の底に残り続けているゲームで、厳しすぎる殺し合いを勝ち抜き、神になった高校生3人が殴り合い、殴られれば殴られるほど記憶をなくしていき、そのことさえ忘れるという余りに過酷なゲームである。




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      ・DICE概説

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ここにおいて、注目すべきは、人は記憶に依存し続ける存在であるということである。近代において、閉鎖的な家族や村社会などの共同体から個人を開放し、自律した個人を作り出すという命題を遂行してきた訳であるが、人間には絶対にそんな事はできない。三島由紀夫も言うように、人間は完全に自分のためにだけ生きられるほど強くはないのである。このDICEというゲームにおいても天谷武という襲い来る敵を次々となぎ倒してきたあまりに孤高な破壊の天才ですら、高畑瞬という親友との記憶に依存していたという描写によりその事が暗示されている。仮に全ての人間との繋がりを断ち切り、山にこもったとしても必ず昔関わった人間との記憶から逃れることはできない。そもそも記憶がなければ、フリードリヒ2世の実験からも分かる通り、人は12歳を迎えることさえ絶対にできないのである。その弱さが故に、オフリス・アピフェラ、メーヘレン的いただき女子やホス狂い、コンカフェオタク、ドルオタ、アニオタなどが大量生産され続けるのである。芸術や芸能は生きるのには関係なく無駄であるにも関わらず、何千年もなくならず、むしろ過酷な時代になればなるほどその精神性が光り輝くのは、偶然ではない。そのオフリス・アピフェラ、メーヘレン的体験を嘘だとわかっていてもなお、そこに熱狂するという嘘を共有し、そのロプノール湖のような記憶を脳内に投影するというのが人間の運命である。記憶をなくしてしまえば人は戦うことができないがゆえに、そういった酒、ギャンブル、たばこ、優劣、仕事、金、タバコ、女、子供、親、ポリコレ、正論などのあまりに無意味で無駄なシミュラークルに溺れる。人間は正しく綺麗に歪んでいる。普通ならそれを糾弾し、改善する事を求めるであろう。しかし、それは、上記の惨めすぎる依存症患者がやっていることと何も変わらない。社会正義を説き、他者を論破し、溜飲を下げ、「おまえのためをおもって…」と口癖のように吐き自分自身の向社会性を証明するという低レベルで不用すぎるクソリプ量産botの所業でしかない。

ーーーー私は、歪みを大いに肯定したい。


サンバルテルミの虐殺で何万人が無惨に殺されようと、ダホメ王国やベニン王国で奴隷狩りがあり人間が商品化されようと、ヴァイキングやコサック達が村の女をレイプし性器から口にかけて槍を突き刺し弄ぼうとも、その全てを余すこと無く肯定し、怒ることなどまずない。幼い子供が蟻を数百万匹大量虐殺するようなたまに示す残虐性を挙げるまでもなく、世界は残酷である。




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全肯定



全肯定



全肯定



全肯定


全肯定






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弱さが分かりやすい暴力性として姿を表し、抑圧がわかりにくい暴力性として姿を表す。

どちらにしても、この世には、暴力しかない。



私は、その現実に打ちのめされながらも敗色濃厚、絶体絶命のピンチでさえも、記憶を喪失しながらも戦い、進み続け、柱である記憶を完全になくした後に、残るドゥルーズ的「これ」のみに価値を認めている。DICEにおいて、両神とも「これ」に殉じ、最後まで戦い抜いた。記憶を全てなくしてもそれでもなお、人は立って戦い続けられるか。この問題には、記憶というロプノール湖がなくなったとしても、オフリス・アピフェラ、メーヘレン的シミュラークルに溺れながらも、その弱さを肯定し、戦い続け燦然と光り輝いた英雄のみが立っていられるという解答を暫定的に出すことができると思われる。
私は、それほどまでに「これ」に蕩尽した者のことを、そのあまりの力強さと美しさに神代に生きていた者たちが、「神」と思わず呼んでしまいそれが神の誕生だったのではないかと想ってやまない。






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