経済発展とともに生活が苦しくなるのは教育産業が非効率だからという話

 経済発展すれば基本的に暮らしは良くなるはずだ。そう思っている人は多いだろう。1950年代の日本はテレビは普及していなかったし、自家用車も稀だったし、結核でバタバタと人が死んでいた。これに比べれば令和の時代はいいものだ。コンビニに行けばおにぎりが安価で買えるし、食中毒になることもない。

 しかし、現代の生活が苦しいのもまた事実だ。その1つが少子化だ。生活が苦しくて子供が産めない人は年々増加の一途である。将来への経済不安も増している。せっかく日本は豊かになったのに、その後の豊かになり続ける公算が大きいのに、どうして我々の生活は苦しいのだろう。それは労働生産性が上がりにくい業界が原因だ。

 発展途上国の支援で言われるのは教育の重要性だ。資源やインフラよりも、まず人的資本が大事だ。人的資本に恵まれた国は資源がなくても戦争で国土が焼け野原でもあっという間に発展することは日本・韓国・ドイツ・その他の先進工業国が示している。ニジェールの経済状況は先進国に200年遅れているが、実際にニジェールの識字率は19世紀初頭の先進国と同じだった。経済発展と教育には強い相関があると考えて良い。

 すると、国家の所得水準が2倍3倍になっても、教育費も2倍3倍になるので、子供を生むハードルは下がらないということになる。実際は経済発展のペースよりも教育費の高騰のペースが遥かに速い。したがって、多くの先進国では子供の数を減らすことによって辻褄合わせを行っている。少子化は日本だけの現象ではなく、先進工業国全般に見られる現象だが、こうした事情が関係している。

 経済発展のペースよりも教育費の高騰の方が激しい理由は教育という業界の性質にある。製造業であれば技術革新によってどんどん省力化が進むため、必要な労働力は減っていく。それまで1000人の女工が繊維を作っていたのが、機械化で10人の管理担当者で済んでしまうようになった。そうなると、要らなくなった残りの990人で自動車を作ったりパソコンを作ったりと生産力が上がっていくわけだ。第3次産業の生産性は上がりにくいと言われているが、金融機関はIT技術の発達で人手が要らないようになってきたし、製造業と同様に省力化の動きは既に始まっている。

 ところが教育産業は労働生産性が特に低い分野で、大量の人手を食う。技術革新で先生一人あたりの生徒が増えたという話は聞かないし、むしろ教育の高度化で先生一人あたりの生徒数は減っているだろう。一人あたりGDPが2倍3倍に増えたとしても、教育関係者の人件費も2倍3倍と増えていくので、単価は下がらない。これは育児も同様で、技術が進歩しても親が子供に教育を施す時間と労力が減ったとは思えない。むしろ大学進学率が上昇したことで親が子供に費やす時間は増えているだろう。要するに、技術革新で自動車や衣類の単価は安くなったが、教育の単価は全く下がっておらず、その上投入量が増えたのだ。

 教育費が家計を蝕んでいく中で生活水準を上げるには子供を減らすしか無く、実際に先進国の人間はそうしている。少数の子供に莫大な投資をすることで先進国の国民の労働生産性は非常に高くなった。その事自体は良い。しかし、特殊合計出生率が1を切るような国が現れる。こうなると、少子高齢化が進みすぎ、別の問題が出てくる。人口ピラミッドが逆三角になったことと寿命が伸張したことで介護老人が多数発生するようになった。介護もまた機械化が難しく、労働力を食う産業だ。一人あたりGDPが2倍3倍に増えたとしても、介護の労働生産性が上がらない限りは人件費も2倍3倍と増えていき、介護の単価は下がらない。そして投入量は増えていく。教育と同じ構図である。実は介護費の高騰も部分的には教育費の高騰の問題とリンクしているのである。

 経済発展に伴い自動車やパソコンを簡単に入手できるような時代になった。実際、製造業はイノベーションが最も活発に起きている業界だ。だからこそ製造業が伸びていた時代は生活水準の上昇をみんなが感じることができた。ところが現代は労働生産性の低い教育と介護によって生活水準の向上が足を引っ張られており、にっちもさっちも行かない状態となっている。このままだと労働生産性が上昇してもその分が教育費と介護費で食いつぶされてしまい、現役世代の豊かさは上がらないだろう。あるモデルを考えるなら、労働生産性が2倍になっても、会社で働く人の数が半分になってしまうので、全体のGDPは増えないとも考えることができる。

 これは近代文明にとってある種の臨界点かもしれない。ある種の特異点を考えることができるのだ。例えば現代では25歳で就労し、65歳で引退するとしよう。これが教育期間の延長で35歳で就労するようになると労働人口は25%減少する。これに加えて教育と介護にますます労働力が吸い取られるため、この2つの産業以外の労働人口は半分になってしまう。イノベーションを起こしても、教育と介護以外のGDPが実質的に上がらないという臨界点が出てきてしまうのである。極端な想像をすると、未来の人類は人口の90%が学生・老人・介護関係・教育関係で占められ、残りの10%の神がかり的な生産性の高さで社会を回していくことになるかもしれない。日本人は35歳まで教育を受け、卒業後に半分は教師や塾講師になり、残り半分は家計の半分を一人っ子の教育に注いだ後、60歳で両親や祖父母の面倒を見るために介護離職し、そこから90歳まで何とか貯金で食いつなぎ、110歳で死ぬまで介護を受けるだろう。恐ろしい社会だ。

 もちろん、対策法はあるだろう。医療の力で老人を元気にすればいい。介護老人を減らせるし、労働期間も延長できる。最近は認知症の予防薬なども発明されているようだ。しかし、この状態になると医療は教育と並んで労働生産性の要となる。しかもこの状態でも教育の重要性は全く減じないため、実質的に教育と医療のダブルパンチになる。教育よりはマシかもしれないが、医療もそこまで省力化の見込めない業界だろう。20世紀のように公衆衛生の普及で劇的な健康状態の改善が見込めた時代は終わった。医療費亡国論は昔から指摘されてきた。教育費亡国論が取り沙汰されないのは単に子供を減らす方向に調節が行われたからに過ぎない。

 こうした状況を改善して日本人の生活を豊かにするには教育・介護・医療を効率化するしかないだろう。介護の場合はロボットを導入したり、医療の場合は医薬品や検査キットなどで予防医療に力を入れて、人手を増やさない方向に向かうはずだ。教育の省力化は一番難しいかもしれない。託児所はある意味で効率的な育児工場と言えるかもしれないが、繊維産業のような効率化は無理だろう。今後の日本はますます教育・医療・ケア労働に金が吸われていき、生活は豊かにならないだろう。実際、日本のGDPが増えないのは労働生産性が低いからではなく、高齢化で就労人口割合が減ったからだ。既に兆候は見えている。

 余談だが、教育と並んで省力化の難しい業界が治安だ。幸いにして日本は治安が良いので、警察費用の増大は起こっていない。したがって経済に対する治安費用の負担は不変だろう。興味深いことに国防は技術革新の塊だ。今に始まったことではないが、先進国の軍隊はたった100人で途上国の軍隊1万人を撃破できたりする。したがってマンパワーの乏しい先進国は人手を要しない正規戦は強いが、治安維持活動の性質が強いゲリラ戦にはめっぽう弱いという特徴を見せる。これも一人あたり生産性の格差が産んだ現象と思われる。

 これまた余談だが、労働生産性の低さと給料は全く一致しない。先進国と途上国で製造業の生産性は極めて大きな開きがあるが、床屋に関しては製造業ほどの大きな開きはないだろう。それでも先進国の床屋の給料が安い訳では無い。マンパワーを要する業界は労働生産性が上がらなくても、他の業界の生産性上昇につられて給料は上がっていくことになる。なんとも不思議である。今回の記事では教育産業の非効率性について論じたが、給料が安い訳ではないのである。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?