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【小説】ヒマする美容師の副業#4 チョウチョは飛んだのか(2)


不審な動きをする黒い塊を追ってというか誘われるようにカフェに入り、彼女の背後となる席を選び腰をおろすと急に体調の悪さに捉えられた。


不調は今に始まったことではなかった。これまでに経験したどの不調とも異なっていることが不安をあおり受診をためらわせ現在に至っている。初めて生命の危機に遭遇しているのかもしれないけれど診断がつくまではあらゆる妄想が許される。寿命が尽きかけているかもしれないと思い込むと今日という一日がとたんに輝き始めるのはどう受けとめたらよいのか。


世の中の多くの人たちは頻繁に感謝という言葉を口にするけれど。わたしだって感謝しているというか運が良いとか、いくらでも並べ立てることはできる。でも理不尽な暴力は今も続いている。特別な罪を犯したわけではない人たちが次々と犠牲になっている。駅ビルのカフェでコーヒーを飲んでいるわたしの身の上だって一寸先は闇ではないか。


その極めてあやふやな場所がわたしの生きている場所だ。そうしてわたしは早々にやりたいことを見失って何もしないはずの休日の朝、こんなところに来てしまっている。


イッショケンメイの黒い塊がはじかれたように立ち上がった。会計を済ませると足早に階下に向かい始めた。当然やりたいことのかけらもないわたしも強制されてもいないのにカフェを出ると同じバスに乗り込んだ。クルマで来たのに行先も確かめないまま路線バスに乗る。でもたいしたことではない。市内を走るだけなのだ。どこへ行ったとしてもたかが知れている。


黒い塊が降車ボタンを押した。一瞬ためらったけどわたしも降りるしかない。黒い塊はバス停に降りたちバスが行ってしまうと対向車線の歩道に向かって手を振り始めた。その方向を見るとLife is beautifulの看板があった。


それは注意深く避けてきた映画のタイトルでもあった。遠い昔の話だと思いたいが実際は最近の話かもしれない。その日わたしは初めて彼の部屋を訪れて彼が用意した映画を観た。『Life is beautiful』だ。彼が薦めなければたぶん観なかっただろう。だが全然楽しめなかったわけではない。驚嘆するシーンはいくつもあった。


でもやっぱり重くてエンドロールが遠かった。それなのに彼は言った。
「もう一度観ようよ」


久しぶりに好きになれたのにそれきり会わなくなった。
看板のせいで妙な記憶をよみがえらせてしまった。それにしてもわたしもどうかしている。それくらいのことで別れるなんて。価値観が同じ人がいいわなんて本気で思っていたのだろう。


黒い塊は手を振り終わると住宅街の方へ向かってやがて見えなくなったのを幸い、わたしはLife is beautifulという名前の美容室に向かう。どうしても名前の由来が知りたくなったのだ。


店の前にはガーデンセットが置かれ、陽に焼けた男が缶コーヒーを飲んでいる。
「すみません、お店の方ですか」
「そうですけど」
「カットお願いできますか」
「どうぞ、中にお入りください」


次回へ続く。



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