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『#仕事』でお知らせをいただく

「うれしいお知らせ」を、いただいた。
いつも、思いがけないカテゴリーでいただいている気がする。
今回は、#仕事にて。
読んでくださった皆様、ありがとうございます。

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内容は、私の仕事のことではなかったので、びっくりした。
白洲正子さんの「たしなみについて」という本に出てきた、呉服屋さんの気遣いのあるお仕事についての話だった。

しかし、仕事は、気遣いであることは間違いない。

自分自身の仕事について考えてみた。
新卒で入社してからの5年程が、人生で一番勉強した時期かも知れない。
少しだけ、以前に書いた。


大学時代、デザインプロダクションでアルバイトをしていていた。
メーカーを始めとするクライアントからの広告の修正依頼が、夕方までに大手広告代理店へ、そして、夕方からプロダクションに降りてくる。
そこから、明朝までに修正案を仕上げることがあるのもわかっていたので、朝出勤して、夕方には仕事を発注して帰れるメーカーの宣伝部に就職したいと思っていた。
そして、メーカー宣伝部には入れたけれど、広告のチームではなく、パッケージデザインの部門に配属になった。

学生時代は、広告代理店メンバーのキャンプ集団に加えてもらったり、それは楽しく過ごしていた。
そこでお世話になった方の同期が、偶然私の会社の担当営業で、
「□□が、元気にやってるか?って伝えてくれって言ってましたよ。」
と伝言をいただいたり、世間は狭いのだと思った。

小売店やCVSの本部への営業にも同行させてもらったのも、実に勉強になったことの一つだった。
役割だとしても、バイヤーの中には居丈高な人もいて、若い私は露骨に驚いた顔をしたはずだ。
(どうやら、私のリアクションでバイヤーの当たりがやわらかくなったらしく、何度も連れて行かれた。)
一歩外に出れば、私は消費者であるし、立場というのは回り回っているのだ。
会社名は看板で、その人自身ではない。
取り去ったら力を示さないものに頼って威張ったりするのはおかしいし、長期的にみたら損なことに違いない、と思っていた。

他にも、国内キャラクターの版権の仕事や、海外キャラクターのアプルーバルなど、膝を突き合わせて話をする仕事も多かった。


組織の内外で、どう振る舞うか。
話の通し方の順番。
どの人とどの人を押さえておくのか。
それは、イコール考え方の順番。
手順を飛ばして、話を通すのは難しい。

どれくらい先まで読んで動けばいいか。
そして、社外の方への真心をこめた配慮と、真実を見極める目。


人に会って打ち合わせる日常で、初めは自分の構想の意図が、なかなか伝えられくて、毎日が実地訓練だった。

上司は、よく諦めずに私を鍛えてくれたと思う。
私には、上司が絶対に見放さないでいてくれる、という安心感があった。

男女雇用均等法ができて間もなくで、女性の総合職、技術職の先輩もまだ、まばらだった。
結婚したら、会社にいられるかどうかも、わからない世代だった。
チームは、私以外は男性だった。
それでも、
「3年間は続けてほしい。必ず、その後に役立つ仕事を教えます。」
私の上司は、そう言ってくれた。
私は、10年間そこにいた。
その間に、世の中も変わってきて、女性も働きやすい時代が来ようとしていた。
もし、家族の病がなければ、続けていただろう。

『仕事の進め方』その全てを、習った。

「デザインは感覚であっても、なんとなくではダメだ。全て言葉にして説明できるように。」
そして、いいものができるまで諦めない姿勢も教わった。

上司の若い時の話は、昭和の時代になる。
どうしても、印刷で色を綺麗に出してもらいたいけれども、製造まで納期がない。
自ら印刷会社に何度も頭を下げて一升瓶を下げて行き、職人さんに頼み込む。
一晩、機械のそばで一緒に過ごして間に合わせたのだと聞いた。
何度か、そうするうちに、
「あの人の懸命さに答えてやろう。詳しく勉強もしている。いいものを作ろうという気持ちが伝わってくる。頼みを聞こう。」
ということになったらしい。
ちょっと、池井戸潤さんの本のようだ。

「自らも胸襟を開いて、相手と信頼関係を作ること。こちらからも信頼を寄せ、相手の方からも信頼してもらえる仕事をすること。」
そのように言われた。
最後は、人と人なんだよ、と。


大手印刷会社の若い営業さんが、工場の現場の方に、
「◯◯さん(私の上司)は、なんと言っている?この色は出せると言っているか?よく相談するように。」
と言われて来るくらい業界では有名な方だった。

私も、夜更けまで印刷工場で粘った。
夜中は、もう自分の感覚も確かではないけれど、諦めたくない。
翌朝、掛け合わせの果物の色が鈍っていたら・・・という恐怖もある。
一回印刷したら、包装材料だけで何千万円になる。
自信のないときには、どうしても初回生産に必要な最小ロットでお願いをした。
どうにか理想的なものを作って、売ってもらいたい。
売り場の棚の、あの位置ならこのデザインで、この色で。

ドキドキしながらも、生きている気がする仕事だったと、今になると思う。
あの10年があったので、今も、仕事の時は頭の整理がしやすいのかもしれない。

悔し泣きをしたり、もがいたり、早く30歳を越えて、一目置かれるような仕事をしている自分になりたい、と考えていた。
今でも会社を越えて、当時一緒に仕事していただいた方々とは交流がある。
チームのようだった。
本当に、良い時代だったと思う。


年初に、引退されている元上司に、お電話をいただいた。
「年賀状をありがとう。元気にしているかな?コロナが収束したら、また、みんなで集まりましょう。楽しみにしているよ。」
信頼で結ばれた人たちとの出会いは、私の一生を変えてくれた。

何があっても初心に戻ると、苦悩したけれど充実していた20代がある。
他の仕事も経てきて、
そして、何ができるわけでもない今も、何とかなると思わせてくれる。
周りの方々に、そして、仕事に感謝である。






書くこと、描くことを続けていきたいと思います。