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ひねくれても仕方がないが、やっぱり凹む

今回のギリシャ出張では、いつも頭を悩ませてくれる面倒くさい社内関係者とは別のチームと行程をともにした。
性別・年齢層・職位というファクターもあってか、終始それぞれが落ち着いて職務を全うし、ドラマもなく平穏無事に完了した。私が求めているのはこういうプロフェッショナリズムなんだよなぁとつくづく思った一方で、もやもやと考えていたことの続きを記しておきたいと思う。

自分がイモくさくて凹む

出張先では自分がほぼ唯一の東アジア人、という状況にはだいぶ慣れてきた。そう意識するのは、集合写真を撮ったときや、会議や会食で集まったときくらいであるが。
その撮った写真などを見返すと、私は背も低いし全体的にもっさりしていて洗練した感じが微塵もない。ビジネスの場に即した服装を心がけているが、なんというか客観的に見ても、自信のなさや人生経験の薄さみたいなものが容姿に現れていると思う。

ふだん人と話さなすぎてか、口角が上がらなくなっているのも、写真で見ると一目瞭然だ。
人種も身体的特徴も服装も、ダイバーシティだといえばその通りだし、同僚や相手はまったく気にしていないと思うが、どうにも居心地の悪い異分子感を抱いてしまう。ロンドン留学していた夏目漱石が抱いていた苦悩の一端がわかる気がする。

出張中、少し時間ができたタイミングで、同行メンバーと一緒にアテネ市街を散策することにした。
ポーランド出身の彼女は、ハッと目を見張る整った顔立ちに、すらりと長い手足に引き締まったスタイルをしている。道行く人々の視線が彼女に注がれ、何人もの男性が彼女に声をかける様子を隣で目の当たりにした。
「振り向いて声をかけたい気持ち、わかる〜」と思っていた私にかけられたのは、「你好」という言葉。体型に言及するのはよろしくないし、美しさの受け取り方は様々とはいえ、見た目・容姿によって、出会う人々や機会はかくも変わるのだな、と改めて痛感した。


会話のネタや話術が乏しすぎて凹む

人どうしが2人でも集まれば、たいていは会話が始まる。
バックグラウンドの多様なメンバーであれば、共通して話せるのは下記のような話題だ。

①食べ物、食材
②家族の近況、天気
③旅行、バケーション予定や過去の珍道中
④趣味、スポーツ、エンタメ
⑤経済、ニュース

ところが私ときたら、上記のどれも、うっすら「ふーん」程度の関心しか持っていないため、会話の膨らみに貢献できず、聞き役に回りがちである。もっと興味を持ち、積極的にネタ作りをすればよいのだが。

質問をし合って会話をキャッチボールのように繋ぐ文化で育ってきた身としては、ネタから連想して自分の話をどんどん重ねて会話が流れていく文化では、どうしても置いてきぼりになってしまう。
このネタはいける!と思って自分の話をし出したとしても、すぐ他の人に流れを持って行かれたり、明らかに興味なしという反応をされたりすると、シュンと心がしぼんで口を閉ざしてしまう経験も少なくない。
起承転結、とまではいかないが、導入から話の盛り上がり、そしてオチ、という話術が圧倒的に乏しいのだ。笑いのツボやユーモアのセンスの違いもあると思う。


凹む理由はわかっていて、人と比べてもひねくれるばかりだ。気持ちが沈みすぎないように、心の持ちようや受け止め方を工夫する方法も知っている。長期的に取り組む行動方針も頭では理解している(言うは易く行うは難し、の壁は厚い)。それでも、なんだかなぁという気持ちがもたげた出張であった。


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