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なぜ読解が人生において重要なのか、そして読解とはなにか。

★当記事は1500文字近くありますので、文章が苦手な方は太字の部分のみで結構です!
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現在、積読を消化していこうムーブメントを1人で興しており、『シュタイナー入門』(西平直, 1999年, 講談社現代新書)を読んでいる。一応教育業界にいるし、必修科目ではあるかとも思いまして。 

今のところ、本で言えば第二章二項目まで読み終わりましたが、なぜシュタイナーが一部では「オカルト枠」なのか今のところ全くわからない。
彼の思想は理性的で同感しかない。むしろ私が行っていることそのものと同類であると言ってもいい。
「オカルト枠」というカテゴライズにどのような理由があるのかについては、やはり「霊的」だとかの思想が入ってくるところだとは知っていますが…… 

前置きが長くなりました。
『シュタイナー入門』をこのまま読み進めてみたら分かるのでしょうが、ここから私がいつものように連想したことをお話します。

読書において、使われている用語だけで「怪しいスピリチュアル」だったり「オカルト」だったり日本人には恐怖を感じさせやすい「宗教」だったりと認識して退けるというのは安直すぎます。

「なにをそれが語りたいのか」を読まなくちゃいけない。
浅学な私も各種仏教経典と聖書は各々多少読んだことがありますが、それら経典は、絵本と子どもの関係と近いかと思います。

要するに、表面的な字面ではなく、「なにを言いたいのかを理解する姿勢」が「読解」であるということです。
読解の機会を逃すだなんてもったいない。
もう一度言うと、読解とは「なにが言いたいのかを理解する姿勢」ということです。

いろいろな本を読んでみると、「読解」を通じて、別々であると思っていたものが根底で通じていることが分かったり、類似であると思っていたものが根底では全く違ったということが分かったりする。

だから「読解力」というのは大切
なんです。それは国語科であれ英語科であれ、プライベートの読書であれ、ふと気になって見てみたWikipediaであれ同じです。

そして、子どもが読むものだとカテゴライズされる絵本も、若年層が好む薄っぺらい本だと言う人も存在するライトノベルも、バカにしてはなりません。素晴らしいものはまだ知らないだけで、世界に溢れているはずです。
出会っていないだけかもしれない可能性は常に人生にあると私は感じます。
それはなんと輝かしい希望でしょうか。

読書をすると、世界が広がるとはいいますが、私はよく、自分が苦しさを感じている時は「自分の世界が狭くなっているぞ!」と捉えて、読書や絵画鑑賞や映画鑑賞または音楽鑑賞などをします。良好な対人関係でもこれは可能です。他の世界を取り込んでみる。そのひとつの手法が「読書」です。

すると、「こんなんあったんだ!いいじゃん!」「なるほど、その意見があったか!」の発見があったりして、自分の世界が拡がり、それゆえに息がしやすくなる。
これこそ、「自分の殻を破る」と呼ばれることの1つに当たるかと思うのです。

ここからは私の感覚についてですが、その文言が何を伝えたいのか。何を表現したいのか。これは、非常に面白い。
絵本やライトノベルや抽象性のある詩とかに限った話ではないんですが、やはり考えごたえがあるのは、小難しいけど詳しく丁寧に書かれた論文調のものより、簡単に読めるけれど行間が多いものなんです。少なくとも、私にとっては、ですが。

以上、英語科と国語科(現代文)のヒヨコ講師の独り言でした。

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