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建築、そして短歌

 小学校低学年のころ(父の記憶では幼稚園生のころだそうだが)、日本を代表する建築家、菊竹清訓の『構想と計画』を愛読していた。海上都市や塔状都市など、実現されていない雄大なプロジェクトが詳細に紹介された作品集で、設計図と建築模型の写真などが並ぶ専門書である。もう今は手元にないが、私の記憶では子供用座布団ほども大きく、そしてそれ以上に厚かった。父の書斎に足を踏み入れては、たびたび「あの青い本がみたい!」とせがむ私に、父はどうして小さな子供がこんな愛嬌のない本を好むのかと首を傾げたようだ。
 その青い本は、小さな私が持ち運ぶには難儀な重さだった。私に代わって書棚の奥に仕舞われている本をリビングまで運ぶことになった父は、ついに「そんなに好きなら」と私に譲ってくれたのだった。

 夕焼け空と波の写真で覆われた函をリビングのカーペットに置いてもらうと、小さな私はその前に腰をおろした。そしてまず、きっちり直角になっている函の角にひとつずつ触れた。函の厚み部分には凹凸のある黒い紙が貼られていて、つややかな写真との色合わせや手触りの違いに、いつもうっとりさせられる。函をひとしきり味わうと、硬い函の内側に指をかけ、きっちり収まった本を引っ張り出す。頑丈そうな函だけれど、無理に引っ張って傷めないようにしなくては。少しずつ函から姿を現すロイヤルブルーの表紙は細畝織りの布張りで、目にも指先にも鮮烈だった。
 それが装丁に趣向を凝らした大人の本との、はじめての出会いであった。日頃自分のめくる子供の本では見たことのない、真っ白ですべらかで、厚くて重たいページ。一枚ずつ繰ると、まっすぐな線や斜めの線や、ほどよい大きさの円が、敷地や部屋という世界のなかに、それは見事に並んでいた。混み合いすぎず、適切な間合いを保つ線と線、円と円。ほどよい緊張と安寧。線同士、円同士の敬意。そのときは父に聞かれても答えられなかったが、いま言語化するならばこういうことになる。
 図面をもとに作られた模型も、大きなモノクロ写真に陰翳を帯びて収められていた。かすかにざらつきを帯びた写真は、こことは粒子の違う世界が、そこに確かにあることの証であった。背筋を正し、息を詰めて写真に見入っていると、吸い込まれて写真のなかの都市に佇んでいる心地がした。
 几帳面そうな小さな文字たちの並んだページを通り過ぎると、また美しい線と曲線と写真のページが待っていた。未知の都市へ、未知の世界へ。
 幼い私にとって、極上の旅であった。

 あの日から数十年経って、国立新美術館の安藤忠雄展を訪れた。
 余計なものを引いて引いて、最低限の線によって生み出される余白の美。
まるで、短歌のようだ。
 余白として空けおかれる空間で、ひとは居住まいを正して自分と向き合い、他者と出会い、外界の風に耳をすませ、空間と自分がひとつであることを知るのだろう。
 目にするもの、耳にするもの、肌で感じ取るものが、精神を養う。
 身を置く空間が、そのなかの時間を育む。

 帰ったら机を片づけよう。机の前で心の重心を下げてみよう。上澄みが夕焼け空のようになったら、その余白に歌が生まれるかもしれない。





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