見出し画像

【掌編小説】スティグマ

*児童虐待、性暴力等、ショッキングな表現を含みます。



***


 波が高い。

 晴れた真昼、濃い灰色の砂は乾いてなお湿ったように重く、スニーカーの底にまとわりつく。
 浜辺には点々とゴミが打ち寄せられており、波打ち際の水には泡が浮いていて汚らしい。
 それら汚いものを視界の外に押しやって、遠くから押し寄せる波だけを見ると、青黒い水が弾く陽のきらめきや白い波濤は、それなりに美しい。
 浜のずっと遠くに、犬を散歩させている二人組の姿が見えた。
 恋人同士だろうか。親子だろうか。

 風が、ぼくの耳をなぶる。
 ぼうぼうと、ごうごうと、耳元で鳴っている。
 上の国道を行くクルマの音さえかき消すほどの音量だが、ぼくはひとりでいるので気にしない。
 もしここに父さんがいたら、なにか言うのを聞き逃してしまうのではないかと、気が気でないだろうけれど。

 ひとりというのは、なんて静かなんだろう。

 風の中でぼくは深く息を吸い込み、長くゆっくり吐く。
 それからわずかに顎を上げ、陽の光をまぶたで受け止める。
 真夏を間近に控えて勢いを増す太陽は力強く、生命力に満ち、ひどく暴力的だ。
 ぼうぼうと鳴る風も、どうどうと寄せては返す波も、地上を焦がす太陽も、ぼくのことなど見てはいない。
 水も砂も浜に散らばるゴミも、ぼくがここにいようがいまいが関係なく、そこに在るのだ。
 それらはぼくを殴らないし、罵倒しないし、犯しもしない。
 ぼくを抱きしめないし、笑いかけないし、褒めてくれもしない。
 それはとても安心なことだ。
 心安く、虚しいことだ。

 まぶたと腕の筋肉がわずかに痙攣する。
 昨夜、ひときわ強く押さえつけられたのは左手首だった。

 それはもう昨日のことだ。
 今ここにはないことだ。

 ゆっくりと目を開ける。

 潮風と汗のせいか、身体中がべたつく。
 汗の伝った頬に触れると、目尻の腫れたところが鋭く痛んだ。
 痛いと感じた瞬間、全身が勝手にまた痙攣し、その拍子に今度はわき腹と肩が痛んだ。わき腹の痛みは特に強く、一瞬息を止めてしまった。
 あばら骨が折れているのかもしれない。
 肩は、今朝、鏡で見たら黒いあざになっていたが、骨は平気だと思う。

 怪我はいつか治る。これまでと同じように。だから平気だ。
 見えない場所の傷なんて、たいしたことはない。顔の傷だって髪の毛で隠せばいい。そうすればそのうち全部よくなる。
 全然、たいしたことはない。
 いつものことだ。
 父さんは疲れていただけだから。

 記憶の中で目の前を拳がかすめる。
 風切り音の向こうから怒鳴り声が聞こえてくる。

 身体が痙攣する。
 またわき腹が痛む。
 痛みを逃したくて、立ったまま軽く身をよじった。
 どうしてぼくの身体は、ぼくが望んでもいないのに、勝手に震えたり痛んだりするのだろう。
 どうして望んでもいないのに、硬直したり、気持ちよくなったり、声が出てしまったりするのだろう。

 暑さのせいとは違う汗が、うなじから背中に伝い落ちる。
 それは生ぬるく分厚い舌が、身体を這う感触に似ている。

 ささくれ立った硬い指の愛撫。
 割り開かれる鈍く深い痛み。
 受け入れる瞬間の暗転。
 タバコの臭い。
 ドブの臭い。
 血の臭い。
 血の、

 それは昨夜のことだ。
 昨夜とは過去のことだ。
 過去はもう終わったことだ。
 過去は決して現実に手を出せない。
 過去は、今ここにいるぼくには届かない。

 だから大丈夫。
 だから大丈夫。
 だから――、

 強く握り込んだ手の平に爪が刺さる。
 立っているだけなのに脈が速くなり、息が上がって、足元がふらついた。
 苦しくて、悲しくなる。
 終わったことに怯えている自分がとてもみじめに思えて、泣きたくなる。

 いつものことなのに。
 なにも悲しくなんてないはずなのに。
 父さんは悪くないのだ。
 父さんは疲れていただけなのだ。
 父さんは疲れて、辛くなってしまっただけなのだ。
 その証拠に、全部終わったあと、ぎゅっとして背中をなでてあげたら、子供のように震えて泣いていた。
 泣きながら、謝ってくれた。

「大丈夫だよ」

 昨夜父さんに言ったのと同じ言葉を呟いてみた。
 でも、一体なにがどう大丈夫なのか考える間もなく、呟きは強い潮風に吹き飛ばされていく。

 犬を連れた二人組は、若い恋人風の男女だった。
 ふたりは手を繋いでいて、男はもう片方の手にリードを持ち、女は前髪を押さえている。大きく黒い犬は舌を突き出していて息が荒く、もっと速く進みたそうに前のめりに歩いている。
 ふたりと一匹はぼくの前を通り過ぎていく。
 犬だけが、ほんの一瞬、ぼくのことを見たようだった。
 ふたりのどちらが着けていたらしい香水のような甘い匂いが、かすかに鼻先をかすめる。
 それは、彼らがまとった幸福の気配そのもののように輝かしく瑞々しい。

 あのひと達はどうやって繋がっているのだろう。
 あの手を放している瞬間の不安を、どうやって乗り越えるのだろう。
 どうやって言葉を交わし、どうやって愛し合い、どうやって自分と違うものを信じることができるのだろう?
 あのひと達も、殴ったり、首を絞められたり、抱きしめたり、犯されたり、泣いたり、慰めたり、するのだろうか?

 もう一度、注意深く目尻の傷に触れる。
 傷は、痛みは、暴力とふれあいの証明だ。
 ぼくの身体がこの世にあることの証拠だ。
 不器用な父さんの愛情表現だ。
 なにもできない自分の  だ。

 目尻に触れていた手を眺める。
 華奢で指の長い手。
 骨ばっているが、男らしいというにはあまりにも貧弱な手。

「お前は、母さんによく似ている」

 父さんの、分厚い手の感触が甦る。
 ぼくを殴って、撫でる、大きくて強い手。

 胸が疼いて、それが切なさのせいなのか吐き気のせいなのか分からなくて、困惑する。

 母さんは綺麗なひとだった。
 横を向いた時のまぶたのカーブ、すんなりした鼻筋、ピンク色の唇、笑顔がフワフワと優しい。
 ぼくは母さんのことが好きだった。
「母さんはもう帰って来れない」
 だから、そう聞いた時は信じられなかったし、今も本当のこととはどうしても思えない。

 母さんはある日泣きながら裸足で玄関を飛び出して、自動車に轢かれた。
 そしてそれきり、壊れてしまったのだ。
 納得いかなかった。
 好きなものが壊れて、もう二度と元に戻らないなんて。
 だからぼくは、最初の一回しか、母さんのお見舞いには行ってない。
 父さんは毎日仕事に出かけて、母さんのお見舞いをしてから帰ってくる。
 くたびれきって、苦しそうに、苛立って、帰ってくる。
 その悲しそうな様子が可哀想で、恐ろしくて、胸が塞いだ。
 母さんのお見舞いにも行けなくて、父さんを慰めてもあげられなくて、なにもかもが嫌で、逃げ出したかった。

 でも、ぼくには行く所がない。
 あの家――父さんとふたりでいる家――以外に、帰る場所がない。
 かつて母さんがいた、母さんの形に穴の空いた、あの家。
 ぼくには母さんのようにごはんを作ることも、部屋をきれいに掃除することも、父さんの悲しみを受け止めることさえできないでいた。
 どれだけ頑張っても、どれひとつとして母さんと同じにはできない。
 静かに荒廃していくアパートの一室で、淀んだ水槽に取り残された魚のように、ぼく達は暮らしている。

 薄汚れた毛布。
 変色した血のあと。
 ふたり分の重さを受け止めペタンコになってしまった布団。
 いつまでも慣れることのない体液の臭い。
 唸り声と荒い息。
 内臓を押し上げられる不快感。

 ああ。
 布団って、どうやって洗うんだろう。
 あの布団で眠るの、すごく嫌なんだ。
 ペタンコになった布団はシーツを洗っても日向に干しても、どこか湿っていて、気持ち悪い臭いがした。なにも起きない夜にこそ、その臭いはぼくを包み込んで羽交い絞めにする。
 床にそのまま寝転んだほうが、まだ安らかに眠ることができた。

 潮風と太陽に炙られた自分の肌からも、その臭いが漂ってくるようだ。
 せり上がってくる吐き気を飲み込む。

「いいよ。しようよ」

 そう言ったのはぼくだ。
 言われるままに下着を脱いだのも。
 だって、父さんが寂しそうだったから。
 殴られる回数は、できれば少ないほうがいいから。

 頬が引き攣る。
 自分が笑ったのか、そうでないのか、もうよく分からない。

 父さんのしていることがだめなことだというなら、それに加担しているぼくも、多分同罪なのだ。
 ぼくはいいよと言った。
 布団の中で下着を脱いだ。
 嫌だと言わなかった。
 だからきっと、ぼくも悪いのだ。

 ぼくが母さんみたいに玄関から飛び出して自動車に轢かれて入院したら、父さんは優しくしてくれるかもしれない。

 どうしてだろう。
 どうしてこうなってしまったのだろう。

 吐く息が喉につかえる。
 母さんが家からいなくなってしまった。
 父さんまでいなくなってしまうのではないかと、不安だった。
 もしも父さんがいなくなったら、あの家でひとりになってしまったら、そう考えることは恐怖だった。
 目の前が真っ暗になるその恐怖に比べたら、脚の付け根を裂かれる痛みも、息が詰まる体勢を取らされることも、なんということはなかった。

 でも、じゃあ、どうしてこんなにも、今、苦しいのだろう。

 父さんに犯されることは、こんなにも自分を満たしてくれるのに。
 殴られても蹴られても、そのあと自分に泣いて縋る父さんの姿は、なによりも自分の存在を鮮明にしてくれるのに。
 どうして。
 父さんを助けたい。
 母さんに生きていてほしい。
 また、親子三人で静かに暮らしたい。
 しあわせになりたい。
 しあわせになりたい。
 しあわせになりたい。
 しあわせになりたい。
 しあわせに、

「お前も、気持ちよくしてやるからな」

 閉じたまぶたの裏に、重さと体臭を伴った生ぬるい闇のかたまりが、覆いかぶさってくる。
 飛び出しかけた悲鳴を寸でのところで飲み込んで、目を開けた。

 それらは過去だ。
 現実には、今ここには、もうないものだ。

 そして、過去を消すことはできない。

 過去が現在に手を出せないのと同じだ。
 あったことは、なくならない。
 忘れたとしても。
 昨夜、ぼくの首筋を舐った舌の感触と熱も、
 震えて尾を引いた悲鳴の奇妙な甘さも、
 粘膜を擦られる時の痛みと熱さも、
 忘れても、忘れようとしても、
 二度と、消せないことだ。

 ひょっとして、ぼくは逃げるべきなのだろうか。
 滴るほど汗をかいた手を拳にして、考えてみる。
 けれど、本当にぼくが逃げてしまったら、そのあと父さんはどうなってしまうのだろう。
 死を待つ母さんと離ればなれのまま、あの不潔で薄暗い部屋にひとり取り残されて――。
 目尻に熱いものが湧き上がる。
 そんな悲しい情景、思い浮かべるだけでもいやだった。

 きっと、どうにかなる。
 いつか、どうにかなる。

 だから、いいよ。

 受容の言葉を反芻するには勇気が要った。
 けれど父さんを棄てる妄想をそれ以上続けることもできなかった。

 必要とされている。それが嬉しい。
 痛くてもいいから。
 多分、ぼくは傷ついているけど。
 痛くて、動けない。
 永劫のくり返し。
 同じ場所に、同じように寄せては返す。

 ぼくの足は海水を含んだ砂に埋もれていて、動かすことができない。
 やがて潮が満ちれば逃げることもできず、溺れて死ぬのだろう。
 満ちてくる海水は父さんの体液と同じ臭いをしている。
 その執着と、同じ色をしている。

 母さん、死なないで。
 死なないで帰ってきて。
 父さんが、泣いてるから。
 泣いて、ぼくに酷いことするから。
 酷いことは全部、きっと悪い夢で、
 母さんが帰ってきてくれれば、
 きっとおしまいになるはずなんだ。
 だから、どうか逝かないで。

 帰ってくるまで、ぼくがちゃんと父さんを励ますから。

 だから、

 すえた臭いのする台所。
 錆びたかみそりの転がる洗面所。
 黄ばんだ壁と湿った布団。

(父さんは誰よりもぼくを必要としてくれる)

 顔の上に降ってくる汗。
 怒号と唸り声とすすり泣き。
 鬱血とあざと膿んだ粘膜。
 洗っても洗っても残る臭い。
 吐き気と後悔と安らぎ。

(父さんと抱き合って眠るのは、あたたかい)

 父さん、今日は早く帰ってくるといいな。
 父さん、今日は怒っていないといいな。

 ひとりでいることは安らかだ。
 安らかでひどく寂しいことだ。

 ぼくの悲しみは、あの部屋の中でだけ息をする。
 父さんの慰めが、あの部屋の中にしかないように。
 錆びて動かなくなった母さんの思い出もそこにある。

「お前は、母さんによく似ている」

 変声期の途上にある掠れた声で、ぼくは父さんの言葉を真似る。
 そう言われることを、嫌いだとは決して思えなかった。

 大好きな母さんに似ていると言われるのは嬉しいことだ。
 大好きな父さんに褒められるのは誇らしいことだ。

 全然、嬉しくなんてないのに。誇らしくなんてないのに。
 そう思おうとすると、また勝手に胸が痛んだ。
 おもちゃみたいだ。
 特定のスイッチを押すと、同じ動きをくり返す。
 可笑しくて、笑った。

 無数の小さな泡が浮かぶ海水が、スニーカーの先を濡らしている。
 ここから、遠くまで行けないだろうか。
 ぼくは笑ったまま歩き出す。
 日差しに揺らぐ水平線を目指して。

 晴れた真昼の海の彼方で、なにか優しげなものが手を振っている。
 優しく微笑みながら、ぼくを手招いている。



***

初出
Pixiv
2018年10月

あとがき
これは女王蜂「Q」のミュージックビデオに衝撃を受けて書いたものです。
性暴力とグルーミングによって破壊されていく少年の心を書きました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?