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説明するということ - はじめに

0. 要約

説明する力のうち、書く力をスキルと考えて、書くために必要な思考法について考えていきたい。その手始めとして、この記事では「書き方」に関するnoteの記事をまとめた。

1. 説明する力

「説明する」との言葉にどのようなイメージが湧くだろうか。

プレゼンテーション? コミュニケーション? そういったことは苦手だよという人も多そう。押しかけていって「ご説明さしあげます」みたいな話もありそう。

私自身も決して得意と言うこともないが、「スキル」として身につけた程度でこれまでなんとか生きている。研究教育職の末席を汚しながら。苦手にさえならなければ、得意にならなくてもなんとかなるものだ。

説明する力はスキルとして伸ばせる。つまり、生まれながらに持っている能力のみではないということ。これはとても重要な事実だ。

説明するスキルには様々な面があり、先に書いたプレゼンテーションもあれば、交渉もある。しかし、ここでは書くことに注目したい。

たしかに、文字をほとんど使わないプレゼンテーションもあるだろう。Appleの新製品発表などは本当にすごい。しかし、よく考えてみると、発表者は文字になっていないだけで的確な言葉の列で文章を発している。TEDもそうだろう。

文字になっているかどうかに関わらず、言いたいことを余すことなく論理的に魅力的に説明できて初めて、良い説明が行われていると言える。当然のことながら、AppleやTEDのあのプレゼンテーションの裏ではしっかりとした原稿が文字で綴られており、発表者はそれをアドリブも交えながら発表しているから魅力的なのだ。

口頭だけのプレゼンテーションであっても、その場の思いつきですべて話している訳ではない。むしろその逆で、練られた口語表現の文章が用意されていることが大前提だ。つまり、適切な文章を書ける能力があることは、口頭での説明であっても重要な要素になると言える。もちろん、それ以外の要素も多々あるが。

このようなこともあって、以降では書くことに注目して、説明するスキルについて考えていく。注意してほしいことは、生来から説明する能力がある人でも型としてのスキルは必要であることと、「スキル」であって「ノウハウ」や「ハウツー」ではないということだ。

何が言いたいのかというと、生まれ持った能力とは別に型を持つことにより、勘で済まさずに俯瞰的な評価基準を持って文章作成に臨めるようになることを目指そうとしている。これは、単にその場その場での対策を得るようなノウハウを超えて、文章作成という行為の全体を整合的に捉えられる能力を得ることを目標とすることを意味している。

2. 書くことへの苦手意識

例えばnoteを書こうと思ったときに、何をどのように書いたら良いかに詰まってしまう人が多いようだ。noteのアカウントを取得した時点で、そもそも書こうと思わない人よりも書きたいことがあるはずなのに、それでも詰まる。

書くことへの忌避感は、小中学校の作文から始まるようだ。実際、我が子たちの課題を見ていても、無茶振りに近いような課題設定を事前の指導がほとんどない状況で行われている。少なくとも、子どもたちが書くということに対して咀嚼できていない状態であるのは間違いない。

行事の感想文・反省文、読書感想文、小論文などいろいろと書かされるが、どれをとってもそのときの「思い」を言葉として並べることを指導されるだけで、適切な並べ方、取り上げるべき内容の取捨選択の方法、注目すべき点の示し方などが系統的に指導されることがない。

いわゆる「説明文」の読み方の指導も同様で、感覚的に「言いたい事」を見つけさせたり、なんとなく「要約する」ことをさせたりしていて、文章作成の反対側の立場での文章の読み取り方の指導も少ない。

しかし実は、今の子たちの教科書には、このような書き方や読み方の方法論がちりばめられている。また、昔に比べればある種の型(例えば、「私は〜だと思います。その理由は〜だからです。」といったもの)を小学校低学年の頃から指導されている。

それでも現実には、それほど上手くいっているようにも見えない。子どもたちの能力が及ばないのか、先生の指導が足りていないのか…。なかなか一筋縄にはいかない印象を受ける。

困ったことに、夏休みの宿題の定番として、読書感想文や自由研究もほぼ家庭に丸投げの状態になっている。我々保護者の立場からすると、おそらく「私もわからなくてなんとかやっていたのに、子どもたちの面倒なんて見られない」ということになるだろう。

自由研究の場合なら、研究テーマを決めるのに一悶着、まとめるのに一悶着。非常に厳しい。自由研究を指示されない学校もあるのだけれど、そういう学校に入れたらラッキーと言えるかもしれない。

いずれにしても、夏休みの宿題の面倒を見る保護者としては、子どもたちに指示・指導するための観点が必要だし、もちろん子どもたちもどのように文章を作成していけば良いのかの指針がほしいはずだ。

3. 書くこと、noteの書き方を通して

この節で最初に示しておきたい私のスタンスとして、これから一連の記事では、フォローワーを増やしたいとか、集客したいとかを直接の目的とすることはしていない。それを直接満たそうとする行為は、ノウハウであってスキルではないと思うから。もちろん、最終的にそのような目的にも向かえるような基礎力になるとは思う。

それから、モチベーションアップとかモチベーション維持とかの話も、別の問題としたい。あくまでも、書きたい内容は漠然としてでもあって、それを文字としてまとめあげて書き表す際のスキルに限定する。

そこで、この記事を書くにあたって、他の方たちはどのような指南をしているのかを以降のように確認した。検索して一通り目を通したつもりだが、もしかすると取りこぼしているものもあるかもしれない。

3.1 #noteの書き方 企画の中から

まず、#noteの書き方 というnoteのお題企画があったらしい。このタグで調べるといろいろな人たちの記事が出てくる。

2020年8月12日現在で7,538件あるらしいので、全ては見られなかった。「人気」の順で上位100件程度を斜め読みした。その中で目にとまったのは次の記事だった。

この記事は、定番のタイトルの言い回しについてまとめられていた。内容についての書き方とは言えないが、内容を上手に表すための方法と言えばそうとも言えそうだ。

残念ながら、上のものくらいが今回の私の記事のテーマにギリギリ沿っているものだった。他は客観的に説明する「noteの書き方」について書いてあるものがあまりなかった。

3.2 noteの記事から、文章術

次に、noteに投稿された記事の中から、文章術に関する記事を探した。次の2つの記事があった。

この記事では、構成のアウトラインを考えたら肉付けしていくという方法を紹介していた。週刊誌の記者らしいやり方かもしれない。アウトラインを作る段階で、どのような文章が入るのかを感覚的に意識できるのならこのやり方でOKだと思う。ただし、慣れてない人がやると、アウトラインとは別の気持ちが働いて文章があっちこっちに飛んでいくものになる気もするが。

この記事は、「書き方には型がある」という考え方を突き詰めていた。こういった指導法もある。ただし、型があるということ自体は賛成だが、こういった言葉のテンプレートで縛る方法がどれほど普遍性があるのかは疑問だ。とは言え、チェックリストのようにして使うのなら便利なツールとして使えそうだ。

3.3 noteの記事から、大人の「書評」関連

次節の子どもの「読書感想文」関連と合わせて、書評・読書感想文をテーマとする記事は多数あった。これはすなわち、読書感想文はニーズがあるというのか、小中学校の頃の"トラウマ"がうずく話題だからなのか…。

大人を想定した記事には次の5つがあった。

この記事では、「本から何を学んだのかを3つ書く」というメソッドを提案している。アメリカ式の「私の言いたい事は次の3点です」で始まるフレーズを意識したものだろうか。現在の小学校では低学年の頃にこのような指導をするようで、その源流はアメリカ式の指導のようだから、現代風とも言えそうで興味深い。

個人的には、書評(読書感想文も同じ)に書物の要約は不要と考えているが、それは人それぞれのスタイルがあると思うので強くも否定しない。説明スキルという観点からすれば、要約のスキルもその構成要素とは言える。

有料記事ということもあり有料部分は読んでいないが、5W1Hという言葉から推測すると、When, Who, What, Where, Why, Howを漏らさず書きましょうということだと思う。これらは、書評に限らず文章を書くときに意識すべき非常に重要な要素になっている。私がレポートや論文を書く指導をするときに、必ず指摘し、考えを深めさせるときのキーワードでもある。

この記事では、説明すると言うよりは備忘録に近い感じで読書感想文の書き方を説明している。読んだことを書き出すことで定着させられるという信念を感じるのだが、それが合うなら良いかもしれない。

先の3つの要点方式に似ていて、1つの気づきに3つのToDoというスタイルを提唱していた。もうひとつ提唱されていたBefore-After方式は、学校作文でよくある「〜がよかったです。これからは〜をしたいと思います」にならないようにできるなら採用しても良さそうだ。

この記事は、著者の子どもの頃の思い出として「教訓型」を押し通したというもの。一つ前のBefore-After方式に通ずるところを感じた。ちなみに、この記事の中では「結論」と「教訓」を同等のものとして扱っていたが、実際は「結論」部の要素のひとつとして「教訓」が有り得るという関係性があることには注意が必要だ。そうとは言っても、「結論がほしい」という著者の主張には純粋に同意する。

もし、他者の何かを教訓とするなら、普遍性を意識してほしいと思う。世の中の出来事を全て、個人の教訓に結びつけて良いだろうという感覚は、巷にあまりに溢れすぎており、多くの人たちにとって感覚が麻痺していることなのかもしれない。しかし本来なら、他人は自分の教訓のためにいる訳ではなく、他人が作った作品ですら自分のための教訓を提供する道具ではないことは注意してもしきれることではない。

この記事の少々自虐的なタイトルなのが残念だったが、内容は非常に真っ当だった。就職活動でのコミュニケーションの文脈で先の5W1Hを取り上げている。また、話す際にAREA(Assertion: 主張; Reason: 理由; Example: 具体例; Assertion: 主張)を意識することも取り上げている。説明の仕方は異なるが、論文指導をする際に、手を変え品を変え私道する点だ。

3.4 noteの記事から、子どもの「読書感想文」関連

まさに現在、この夏休みに多くの保護者が頭を悩ませている問題だろう。我が家でもこの闘いが始まっている。

そんな中で感じるのは、一発勝負で書きたいがために、頭の中で推敲を全て済ませてから書こうとすると、負担感が大きくなってしまう傾向があること。良い文章を書くためにも、最終的な手間を減らすためにも、何度も下書きをした方が良い。もっと言えば、下書きを書く前に、プロットを考えるためのメモを作成するべきだ。(原稿用紙の左右の余白は本来なら推敲・校正のためらしいが、そういった使い方も学校では教えない。)

大人であっても、頭の中で十分にまとまっている状態でさえ、いざ文字として書き起こしていくと、書いている途中で気づいて付け足したり修正したりすることになる。つまり、文章作成は、行きつ戻りつしながら進むもの。ましてや文章を書くのにまだ慣れていない子どもであれば、もっとその行きつ戻りつが多くなって当然。

読書感想文に限らないが、作文をさせるなら、一発本番の習慣から改めるべきだと思う。

さて、子どもの読書感想文の書き方について、次の6つの記事が見つかった。

この記事の中で引用されているDaily Portal Zの中で引用される「目からウロコの読書感想文の書き方のコツ」というサイトが元ネタらしい。

ややノウハウのような気もしなくもないが、要約やBefore-Afterも含む従来からの学校作文の中で許容される方式に見える。また、これも先に挙げた「教訓型」の一形態と言えそう。個人的には、これらの要素は読書感想文を書くための必要条件とも十分条件とも思っていないが、この要素を取り込んでいれば他の子たちと似たものになって無難かもしれない。「説明する力」とはちょっと離れた話になりそうな気分がする。

この記事では、本の中の出来事と自分の類似した体験と対比させるべきだと書いている。これ自体は悪くないと思う。ただし、最終的に教訓へ誘われることになってしまいそうな気がする。前述のように、単なる自分の糧としての教訓というのには個人的に抵抗感がある。

この記事には、「「感想」と「思考」の二重螺旋構造」との視点があって興味深かった。残念なことは、この記事の最後に書かれている「テンプレート」の中で、教訓を挙げている点。教訓の呪縛は強力なようだ。

「思ったことを素直に」「しゃべるように」書くことが良くないとの指摘はその通りだと思う。その代わりに、「感想⇒理由」「結論⇒証明」と言う指摘も至極真っ当。実は、前述のように、現在の小学校の国語の教科書には同様のことが書かれている。それなのに…。

この記事の内容は中庸で妥当だと思った。理由に重点を置いているところも。一方で、どのように文章を書いていくのかといった点には踏み込んでいなかったことが残念ではある。というのも、書くべき内容が決まった後にそれを組み立てていくのかは、苦手意識のある人にとって難しいところだから。

「自分自身のことについて書く」という指摘が面白い記事だった。ただし、別の言い方として「変化の型」とも言っており、これはBefore-After型と同じとも言える。

4. まとめ

この記事では、説明する力野中でも書く力に注目し、スキルとして見てほしいということを書いた。また、書く力についてnoteの中ではどのように説明されているのかを調べた結果を示した。

5W1Hを満たすこと、主張-理由の型、Before-Afterの型、教訓型が得られた。

また、読書感想文を書くことに対するニーズは強くあることが分かった。

その中で、読書感想文と教訓の強い結びつきを多くの人が幼少の頃に植え付けられてしまっていることをつくづく感じた。「感想」が個人の「気持ち」と強く結びつけられている間は、この教訓型を覆すことは難しいのかもしれない。

このような教訓型の文書は、大学教員たちがぼやく「レポートが感想文みたいだ」の典型例でもある。論理的に客観的に説明すべきレポートに対して、個人の気持ちを起点にした文章は要求に見合わないものだ。しかし、子どもの頃に与えられたフィードバックが不適切であったり不足していたりした読書感想文によって、レポートと感想文の違いを学生たちが理解することを難しくなっているように感じる。

以降の記事では、感想ではない説明としてのレポートを念頭に、「説明すること」を掘り下げていきたい。

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