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説明するということ - コラム(4) 事実と想像の境目

事実と想像はどのように分けるべきなのか。

データを客観的に説明できるものが事実と言える。温度計の目盛りが40℃を指していれば「今は40℃ある」と説明する。昨日が35℃で今日が40℃なら、「昨日より5℃高い」と説明する。事実とはそういうこと。同じように、Aさんが笑ったのであれば、「Aさんが笑った」と説明するのが事実の説明になる。

ここで注意すべきことは、このような観測をしているのは人間だということだ。データを読んで言語に変換するときに、どこかに解釈が生まれる。上では、客観的に読んだことになっているが、解釈が生じている。時刻と温度というデータに対して、現在(に限りなく近い時刻)の温度だと解釈するし、Aさんの顔の筋肉の動きから「笑顔」と解釈している。

つまり、観測した人がそれを言葉に変換するときに、その人なりの解釈が入る。データが数値だったとしても、読む人が知っていることと関連付けて理解しようとする。

それでも客観的に説明していると言えそうなのは、自分以外の多くの人が同じように説明しそうだ、同じように説明すると言っても良い、と確信できるからだ。おや、ここでも「確信」という形で解釈をしている。

さらに本質的には、データを取得するために観測するとき、どんなに頑張って観測しても、世界の一部を切り取ることしかできない。本来なら1つの出来事は1つしかないはずで、1つしかない事実と言えるはずだ。しかし、実際には、ある出来事についての説明は複数あり得る。

このようなことが起こるのは、ある時刻での世界全体をすべて観測することができないことにある。さらに、その出来事があった時間幅(期間)の取り方も人によって異なる。

たとえば、「ニコニコしている」と解釈するためには、どれくらいの時間、笑顔でいることが必要だろうか。顔の筋肉をずっと固定できないため、少し動いているだろう。どの顔の動きをニコニコと呼ぶのだろう。ニコニコしている人を録画しているとして、タイムコードで指定しようとすると、開始と終了の時刻は見る人によって少しずつ異なる。カメラの位置を変えてもニコニコのままだろうか。引きつり笑いや悪巧みの笑顔になりはしないか。

つまり、時間と空間の一部を切り取って特定の角度から見ることが必要になり、それによって見え方が異なってしまう。それでも、多くの人が同じように解釈できる切り取り方を合意していくことで、客観性を担保できるようになるだろう。

このように、客観とは、あくまでも誰もが言いそうな度合いの高さを言っているに過ぎない。

客観に対して主観がある。客観が誰もがそう言いそうなことだとしたら、主観は自分がそう言いたいこと。突き詰めて行けば、自分の想像を含めて解釈している場合に主観的と呼ぶ。誰もが言いそうな度合いが低いとも言えそうだ。

そもそも、人間は思い込みをする生き物だ。想像力がたくましい。「この状況はこういうことに違いない」「こういった場合はこうなるはずだ」「この場面ではこうならなければならない」と、本人の気づかないところで事実から離れた解釈をしている。

したがって、客観と主観は二分化されるものではなく、連続的な軸の上にあるものだ。そして、主観的な説明の一部に想像と呼ぶものがある。

本当の客観性を実現することは非常に難しい。それでもできるだけ客観的な説明をしたいなら、同じデータを見て同じ事を他の人も言いそうかどうかを意識し続けなければならない。このときに、他の人も言いそうだと勝手に解釈すること自体も客観性から離れることにも注意が必要だ。他の人が言いそうかを測ることは難しいが、それでも独断せずに言う方法はある。それについては、別の機会に書きたい。

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