【エッセイ】縁に恵まれた人生
これまでに何度も言ってきたし、もうここでも述べた気がするが、私はめちゃくちゃに「縁」に恵まれた人間である。
大事なことは何度でも言いたくなる人だから、多分これからも何度も言うと思う。決してボケでいるわけではない。多分。
ともあれ。
家族然り友人然り、教え子に至るまで、出会って親しくなった人はみんな「良い人」ばかりだ。
この場合でいう「良い人」というのは、馬が合うとかタイミングが合うという以前の、本当に心根が「善良な人」という意味である。
私の周りは善良な人が、多い。
朱に交われば赤くなるというくらいだから、そういう相互作用は間違いなくあると思う。
だから、私も善良でいられる。
また、私は決して「私」が完璧だとは思わない。
何ならびっくりするほど不完全だ。
その、自分の不完全さを私は「知っている」。
教壇に立っているときも、私は「やらない」ことは咎めた気がするが、「できない」ことを咎めないよう心を砕いてきた。
だって、人間は不完全な生き物だからね。人さまにどうこう言えるほど、私は立派な人間ではないからね。
これまでの人生でも、たくさん間違えてきたし、たくさん人に迷惑をかけてきたし、勝手に転んで大泣きもしてきた。
そしてそれらのどれも、絶対に一人では乗り越えていない。
何も誇っていうことではないかもしれないが、事実なのでそのまま言う。
私は独りでは生きられない人間である。
それを知って、認めて初めて得られる「助け」があることまで、知っている。
居直るつもりはない。
それらは全て私が私を生きるために、これまでの人生の中で学び得たただの「事実」だ。
直接的には、自分がどうにかするしかない問題ばかりだし、結局のところで言うと自分の人生のことだから、最終的な決断は自分ですることになる。
どんな決断でも、自分の人生のハンドルは自分で握るしかないからだ。
それでも、渡りに船よろしく困ったときに手を延べてくれる人がいる。
絶妙なタイミングで声をかけ、名を呼んでくれる人がいる。
そういう瞬間、私は私の人生が光るのを見る。
優しくされると優しくなれる。
優しい人が好きだから、優しい人でありたいと思う──。
私は日頃、頭でっかちでなかなか気難しくて、ややこしい言葉をこねているけれど、そういう人としての根本的なあり方は、何だかんだ言いつつかなり単純な気がする。
自分のそういうところが、結構好きだ。
善良で、己の無知を知り、自分の人生のハンドルをしっかり握って歩く、優しい人間でありたい。
そして私はこれから先も、私を愛してくれる人たちを愛するし、人が愛してくれる私を愛して生きていきたいと思っている。
何だか着地点がわからなくなってきたし、なかなか壮大な話になってきたな。
年が明けてから、まだ半月も経たないのに、日々いろんなニュースがそこここにあって、無闇に触れるとそれらはびっくりするくらい鋭い棘を持っている。
溢れる情報に、勝手に飲み込まれてちくちくと刺される。気持ちがじわじわ弱っていくのを感じる。
遠くの山を見て、その遠さを目の当たりにして勝手に途方に暮れるような気持ちになる。
そういうときは、努めて「近く」を見るようにする。人の痛みは人の痛みで、必要以上に自分が痛くなる必要はない。
「自分の痛みに敏感である」ことは、「他人の痛みに鈍感である」こととイコールにはならない。
そんなふうにして、自分の中のいろんな感情に折り合いをつけていく。
今日もらって本当に嬉しかった言葉があったので、最後に記録として。
めちゃくちゃに勇気を出して、自分の書いたものを読んでもらった方からもらった言葉。
自分書いたものから、内側を透かして見た感想をもらった。
しかも、その内側を宇宙とか森のような「広い世界」と受け取ってもらえたことがたまらなく嬉しかったし、それはまさに日々私が「頭の中」で歩いている世界ドンピシャでたまらなくなった。
伝えたい世界が、読み手に伝わるという喜び…!
ちなみにふと思い立って、ここ最近自分が書いたショートショートを読み返したら、なかなかの高頻度で「床に寝転がっていた」。笑
気がついた瞬間笑ってしまったし、そこに自分の描く世界の癖をみて勉強にもなった。
はー、明日からもまたぼちぼち書いていこう。
私は私にできることを、私にできるだけ、地道にしっかりやっていこう。
今ここにある良い縁たちを、このまま両腕に大切に抱いて。
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