【エッセイ】優しい人がすきだという話
ああ、私は優しい人がすきだなあと、時折脈絡もなくふと思うことがある。
そりゃまあ、大抵誰だって乱暴な人や意地悪な人よりも、優しい人の方がすきなのだろうけども。
優しさとは。優しい人とは。
今日はそういうお話。
久々に少しお酒が入っているので、ゆるーくお付き合いください。
では、いざ。
私は元々、自己犠牲を美徳とするタイプの人間ではある。
多少の無理が、誰かを救うなら。
多少の我慢が、誰かを笑顔にするなら。
その「誰か」との距離が、近ければ近いほど、「多少」が大きく幅を持つ傾向にある。
結果として、自分を多かれ少なかれ犠牲にしないと成立しない救済が生まれる。
それを、私は喜んで「是」とする人間なのである。
何なら、そういうときの犠牲は、いつかきっと巡り巡って自分に返ってくると信じてすらいる。
よって、はたから見ると「犠牲」に見えていても、私の中では「犠牲」と認識していないなんてことがままある。
それを人は、愛という──。(壮大なお話)
言ってしまえば、なかなかの「お人好し」なのだろうとは思う。
ただ、お人好しとはいえ、私も底抜けのアホではないので無限に「優しさ」を搾取する人間の見極めくらいはつく。
おかげさまで、のらりくらりここまでやって来れた。
私は、そんな自分が結構すきだ。
先日、スーパーのセルフレジを使った。
いつものようにボーッとしながら、買うものをレジで読み込んでいく。
ふと横を見ると、隣のセルフレジを使っていた人が、やたらと買うものをひっくり返したり画面を操作したり、何か困っていそうな様子だった。
まあでも、すぐ後ろに店員さんいるしな。
私が出しゃばる場でもなかろうよと、のんびり自分の作業を進める。
隣の人が、店員呼び出しボタンを押す。
店員さんがくる。
隣の人が何かを言い、店員さんがそれに応じる。
でも何となく、コミュニケーションが成立していない感じがする。
チラリと見ると、隣の人は海外の方のようだった。
念のために言うと、私は国語が好きでそちらにステータスを全振りしているため、英語がからきしダメな人間である。
英検は三級をとって満足した、おサボりロードのエリートだ。海外に行ったときですら、ノリと雰囲気とボディランゲージで、これまでも強引に生き抜いてきたようなタイプだ。
でも、まあ何とかなるんよ、のマインドで実際何とかなってきた。
そんな英語力しか備えていないから、ここは私の出る幕ではないと判断し、さっさと自分の会計をすすめる。
お隣さんと店員さんは、まだ何かゴタゴタしている。
何かを買おうとしているお隣さんと、何に困っているかわかっていない店員さんと、それをマヌケな顔でこっそり野次馬している私と。
金子みすゞが脳裏をよぎりつつ、私はやり取りに少し注目し始める。
もう、こうなるとダメなんですよね。
根っからのお話し大好き世話焼き大阪人が、のそのそと顔を出すんです。
とりあえず把握した状況は、「買いたいものがあるが、バーコードが見つからない海外のお隣さん」と「何かを誤入力したと認識し、商品取り消し作業をしようとする店員さん」がそこにいるということだった。
ポンコツな私の耳と脳みそで理解できたことのあらましは、まあそんな感じだったと思う。多分。知らんけど。
そんなわけで、何だかイラつき始めている店員さんと、お手上げポーズをしている海外のお隣さんの間にちょっとだけ分け入って、「バーコードの場所探してはるみたいですよ」とへらへらしながら言ってみる。
結果として、お隣さんは欲しいものを買えて、店員さんも自分の仕事に戻れて、めでたしめでたしとなった。
買おうとしてたものが焼き芋で、ちょっとわかりにくい紙袋の模様の中にバーコードがあったのが原因のゴタゴタだった。
こういうときに、臆さずコミュニケーションの輪に飛び込めるあたり、私は私を信頼できる。
もはや、状況を楽しんでいる折すらある。
これが周りから見ると、「優しい人」なんて言われちゃうし、諸々お得な私の性質なのである。はっぴー。
ちなみに、このとき買ったアイスは帰ったらちょっと溶けていて、ある意味で今回の件の「犠牲」だった。
「優しさ」は、無尽蔵に湧くものではない。
今回、私がこの状況を楽しめたのは、間違いなく私に「余裕」があったからだ。
私はあのとき、全く急いでいなかった。
いやアイスを買っていたから、それで言うと急ぎたい気持ちはあったけれど、帰るまで忘れていたからまあヨシ。
時間の制約がないと、ずいぶんと人は気楽に生きられる。そのことを、私はこの数年で身に染みて知った。
気楽に生きられるようになると、心に余裕が生まれて周りにより「優しくできる」。
別に、直接的な見返りを求めて、周りに優しくしているつもりはない。
こっちは手伝ったんだから、お礼を言われるべきだ!なんてことも、特に思わない。
万事、私がしたくてしたことだ。
自分のしたことによって起こる出来事は、全て自分に帰属する。それだけのことだと認識している。
ただ、自分が発信した「優しさ」は巡り巡って、自分に返ってくると信じている部分はある。
先に「直接的」と言ったのはそのためだ。
ある意味いつか何かの形で、この優しさが「間接的」に返ってくるのではという、淡い期待はしている。これが私の欲深さ!
そんな下心もあって、私は明日も明後日も優しい人がすきだし、そんな人でありたいと考えているのだ。
人に優しくされたいなら、優しい人になることが近道だと考えている。
そして優しい人になる最短距離は、「余裕」のある人になること、なのかもしれない──。
なお、先述したセルフレジの件の海外の方に、別れ際「thank you!」と笑顔で言われた。
ああ、よかったよかった!とこちらも笑顔で、急いで返す言葉を考える。
その際、「You're welcome.(どういたしまして)」がスッと出てこなかったポンコツな私は、とりあえず「That YAKIIMO is very delicious.(その焼き芋めっちゃ美味しいで)」と伝え、にこやかに帰ってきたのであった。
まあ私は、食べたことないんですけどね。その焼き芋。
…大阪人の適当さなんて、こんなもんである。
帰ってから一応、焼き芋は英語で「Baked sweet potato」と言うのだということだけ調べたのでございました。
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