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【ショートショート】 はちみつ色の海

 夕暮れの美術室に、彼女はいた。

 一人で鼻歌を歌いながら、全身で大きめのキャンバスに向かっているその背中は、普段教室で見る姿よりもずっと眩しかった。


 その日、俺が美術室にペンケースを忘れたことに気づいたのは、放課後になってからだった。

 五、六時間目の美術の移動で美術室に持って行き、そのまま置き忘れて教室に戻った。

 帰宅前、とあるプリントを職員室へ提出することを思い出したときに、同時にペンケースの忘れ物に気がつき、美術室に寄り道をした。

 俺が、美術室に行ったのは、ただそれだけの理由だった。

 この学校の美術室は、校舎の端の方にあって、あまり人の行き来がない。
 美術室の後ろ扉は開いていて、俺は何の気無しに足を踏み入れようとして、彼女の後ろ姿を見つけた。

 夕焼けを流し込んだように、ひたすら明るく西陽が射すその部屋のなか、まるで筆で歌うように絵を描いていく。

 もう、そこにある光景そのものが「絵」のようだった。俺には美術のことなんて、何もわからなかったけれど、ただただ美しかった。

 彼女はイヤホンをして、こちらに気づくことなく夢中で筆を進めている。

 別に驚かすつもりはないし、何より俺は彼女の邪魔をしたくない。

 黒板の方に向かって、絵に没頭しているその様子を数分眺めてから、ようやく自分の用事を思い出し、後ろ扉に近い自分の席に静かに向かう。

 少し近づいてわかったことは、どうやら海の絵を描いているらしいということだった。オレンジ色に染まるその場所に、キャンバスの深い青がよく映える。

 彼女のことは、正直名前も曖昧だ。同じクラスの人だというくらいで、特別何かを話したような記憶もない。
 ただ、そのささやかな接点がちょうどよかった。

 俺は、その絵で初めて「君」を見た。

 真冬に見ることはなかなか難しそうな、真っ青な絵を、夕陽が溶けゆく暖かい部屋で見る。
 言葉にしきれない空間だった。上手く言えないけれど、何もかもが完璧だった。

 置き忘れたペンケースを見つけ、そっと手に取る。君はこちらに気づいた様子はない。

 大丈夫、それでいい。どうかそのままで。

 まるで、「鶴の恩返し」の鶴が覗いてはいけないと言った部屋を、図らずも覗いてしまったような、罪悪感に似た何とも言えない気持ちになりながら、静かに美術室を後にする。

 美術室を離れるとき、まだ同じクラスのクラスメイトであるうちに、何とかして君と話しをしてみたいと思った。

 できることなら、あのはちみつ色に染まった海の絵が、完成してしまうまでに。


(1045文字)

=自分用メモ=
夕刻のエモさ溢れる教室を、多角的な表現でひたすら書き表すことに注力してみた。
多分「教室×夕刻×高校生」の組み合わせは、私が好きな風景上位に入るものだ。たまらない気持ちになる…。少しだけ意識的に、倒置法や文末の省略を使った。

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