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【ショートショート】 かぜの運ぶ夢

 風邪を引くと、いつも見る夢がある。

 現実では行った記憶のない、だだっ広い草原で全力で風を浴びるあたりから、その夢は始まる。そして大抵、もう風邪から解放されそうだなというくらいのタイミングで見る。

 熱を出して眠りにつき、次第に風を感じ始めると「また、あそこに行くのだろうな」ということと「ああ、明日には熱が下がるのだろうな」とわかるくらいには、印象深い場所だった。

 そこには一本の木がある以外には、本当に何もなくて、ただただ見渡す限り全部が草原が広がっている。
 何もないけれど、決して寂しくも怖くもなくて、何なら幼い頃から風邪のたびに行っていたせいか、懐かしい気持ちすらしてくる。

 そこはそんな夢とうつつが交差する、不思議な場所だ。

 ある日、ほぼ十年ぶりに風邪を引いてしっかり寝込むことになった。

 すっかり大人になって、私はもう夢のことなどとうに忘れていたのだけれど、寝込んで数日経った夜、頬を撫でる草の香りに「あっ!」と全てを思い出す。
 その頃には、もうその草原にいた。

 三百六十度ぐるっと見回しても、地平の遥か彼方まで視野の及ぶ限り草原が広がる。

 そこに、ポツンと立つ一本の木。間違いない、「いつもの草原」だ。

 何度となくきたことのある場所…でも、あの木はあんなに小さかっただろうか。記憶の中では、もう少し大きかったような気もする。

「わあ!久しぶりに会ったね!全然会わなかったってことは、これまでずっと元気にしてたんだ!」

 背後から急に声をかけられて、ぎょっとして振り返ると、そこには自分より一回り小さい背丈をした「誰か」がいた。

「う、うん。久しぶり!」

 私の声だけれど、私の言葉ではない言葉が、自然と口をついで出てくる。

 何もかも驚きっぱなしだったけれど、それでも決してそれらは私を嫌な気持ちにはさせなかったので、もうただその会話の流れに乗る。

 最近は何をしていたのかとか、ここまで十年ほどはずっと機嫌良く過ごしていたのかとか、矢継ぎ早に質問をされ、それに懸命に答えていく。

 すると、不意に「ねえ、私のこと覚えてる?」と聞かれた。

 ずっと心の隅で、記憶を辿りながら誰だっけと思い返していたけれど、答えに辿り着いていなかった私は、思わず答えに詰まる。
 名前はおろか、実は見た目も何だかぼやけて見えていてよく判別できていない。

「うーん…」
「ダメだよ、覚えていないことを覚えているフリしたり、知らないことを知っているフリしたりするのは」

 誤魔化すような私の挙動に、それは生きるのが下手なオトナのすることだと、彼女は呆れたように腰に手を当てて叱ってくる。
 今の私には、彼女の言っていることがよくわからなかったけれど、彼女のことは間違いなく知っている気がする。そのはずなのに、何も思い出せない。

「…ごめんね、思い出せない」

 素直にそう折れた私を見て、彼女は少しだけ寂しそうな顔をして、そっかあとだけ言った。

 その瞬間、ごうっと風が強く吹く。飛行船のような何かが、頭上を横切って私たちに影を落とす。

「何だろう?」
「ああ、もう君にはあれが見えるんだね」

 それじゃあもう、私のことを覚えていなくても仕方がないなあと独りごちて、彼女は説明してくれる。

「あれは、明日へのナヤミとかシンパイとか、そういうものらしいよ」
「昔からあんな大きいもの浮かんでた?」
「どうかな、最初はなかったかも。だんだん大きくなってきた気もする」

 今はもう、こんなに大きい。オトナって大変だ。と、彼女は肩をすくめてその影の元を見上げる。大きな飛行船は、大きく黒くそこに浮かんでいる。

 また、ごうっと強い風が吹く。ゆっくり、時が動く。飛行船も、風に流され少しずつ動いていく。

「ああ、そろそろ時間みたいだ…」

 その風の唸りを聞いて、彼女はそう呟く。何の時間とは聞かない。何となくわかる、お別れの時間だ。

 そう思うと何だか一気に切なくなって、思わずそのままの気持ちを吐き出した

「私、あなたのこと何も思い出せないし、初めから実はあまり姿がきちんと見えていないの。でも、ものすごく懐かしい気持ちになる。ねえお願い、ヒントを頂戴」

──あなたは、誰?──

 聞いてもまた、すぐに忘れるしそれでいいんだよと、彼女は笑う。

 そのままぐっと風が遠くなって、辺りが一気に眩しく照らされていく。どんどん草原の音も遠のいていく。
 一瞬、ほんの一瞬だけその目も開けていられないくらいの眩しさの中、彼女が何かを言いながら大きく手を振るのが見えた。

 ──会えなくなっても、そばにはいるよ──

 一生懸命、そう伝える彼女の頭には、白くてふわふわした、大きな耳…。

 耳?

 気がつくと、自室のベッドの上にいた。
 幼いときからの経験で、もう自分に熱はないことを私は知っている。

 ああ、何だかとても心地良い夢を見ていた気がする。それなのに、どんな夢だったのか、何も思い出せない。

 体調不良のときの記憶力なんて、まあそんなものかあと思いながら、とりあえずベッドを抜け出す。

 その瞬間、足が掛け布団に絡まってよろめき、棚にぶつかった。病み上がりの鈍臭さだって、まあこんなものである。

 派手にぶつかったせいで、棚からいろんなものが降ってきた。幼馴染との写真が入ったアルバム、職場の名前が入ったボールペン、好きなアーティストのCD、実家から持ってくるくらい大切にしてきたウサギの人形…。

 ふうと深呼吸をして、棚から降ってきたそれらをそっと元の場所に戻すところから私の「日常」はまた始まった。


(2248文字)


=自分用メモ=
夢に、幼い頃から大事にしているテディベアが出てきた。そこに起因して書いたもの、推敲の時間は多分足りていないが、今の最大限。やむなし!
体調不良のときに必ずみる夢、私にもあった気がするのだけれど、いつの間にか見なくなったなあ…。
ちょっといつもより腑抜けた思考で、「風邪」と「風」を混ぜながら書く文章、なかなかスリリングで楽しかった!

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