夢❌父❌解剖

昨晩の夢。ちょっと過激なものの、夢の中の私はむしろ何かが整理されて、凛とした感じとなった。(実世界での色々なことも、きっと夢の中で整理されたことだろう。少し脱皮したかのように成長した?)

結構刺激が強いので、グロ注意です❗️
苦手な方、闘病中の方は読まない方が心の平静を保てるかと思います。

夢の中の私は新しい病院での勤務を始めたばかりで、同期とは初対面の新人さん。まだ慣れない業務もあれば、その病院での勤務以前からやっていた業務もある。

この時、父が院内にいる。(経緯や背景は夢の中では納得だったのだが、今は記憶にない。私と昼食を共にしたり、隙間時間で最大限会えるように、勤務先に会いに来ていたのかもしれない。)父が院内にいることも、末期のためにちょくちょく会いに行っていることも、同僚にはオープンにしていた。

父は鎖骨を含む全身に悪性腫瘍が転移していた。(他の病巣は大まかに椎体や腹部と朧げなのに、右鎖骨だけは起きた今もハッキリ覚えている。何故この夢の中の記憶としてハッキリしているかというと、父がエレベーターに乗る前に、立位でエレベーターを待つ時、閉まったドアに右腕をツキ、若干頭をモタレテ疼痛を我慢していたからだ。夢の中なので、まぁ、細かいことは突っ込まないで欲しい。)

ーーー背景ーーー

父は元来痛みに強かった。昔の事故の後遺症で脚を複雑骨折し、何度か手術したものの、骨片は関節から全ては抜去できなかった。なので、しばらく歩行すると痛みがあったそう。

5-FU治療中に手足症候群(Hand foot syndrome: not the infectious hand foot mouth disease) になった時も、肉が生に丸だしになった状態で、砂・砂利の上を素足で歩くように痛いとは言いつつも、自立歩行していた。(症状の程度によって、痛みで車椅子を使用する方はいる。)

ーーー背景完ーーー

体重は著しく減少し、ブロンドの髪もスポーツ刈りで短い。抗がん剤で薄くなっているかは、遠くからは見えない。禿げてはいない。私が業務中に遠目に見ても、長身で元来肌が白く、髪が見えないくらいの金色の短髪というのはわりと目立つ。(友人にも「あれ、あなたのお父さんじゃない?」と尋ねられ、背景を伝えることもしばしば。)

その後、私の病院で父は永眠した。

その直後、私は一人で父を解剖した。胸部は夢の中では正中切開していた…… 腹部は肝移植時に類似したメルセデスベンツ切開(逆T字・逆Y字切開)の正中切開を臍くらいまで伸ばし、そこから左右に逆Y字に切開した……夢の中の意図としては、視野が良いという考えだった(夢の中なので、手技にはツッコまないで💦 本来の解剖時の切開ではない……夢なので……)

全身の臓器をくまなく調べて、状況を理解した。転移巣や手術で摘出や吻合をした組織。腫瘍のサイズや形状も改めて把握した。私は自分の目で見て、手で触れて、その後組織を顕微鏡で見て、色々と理解できた。

これ以降、私の表情は変わった。

仕事の際でも、まだまだ戯けた雰囲気が残っていた私は、もう少し引き締まった表情になった。普段からもう少し思考にキレや深さが増した。何かの成長というか、切り替えがあったようだ。

夢最後、エレベーター内右手のボタン前に乗った私の後に、1mくらいの距離から、同乗するために小走りで急ぎながら声で同乗の意識を伝えた同期のためにドアを左手でパッと押さえた時に、私の表情に変化はなかった。少し前の子供っぽさが抜けない様子とは違ったため、彼女は私に「最近雰囲気変わったね」と声をかけた。私は、「そう?」とだけ聞き返した。

「うん。なんか、前よりもしっかりしてる感じ。何かあった?」と続けた。

この時、私は「父を自分で解剖した」とだけ答えた。表情は変えず、補足もせず、たった一行を言葉にした。しかし、自分一人の心の中にしまっておいた重圧がこの時軽くなった(a weight I had been carrying alone had been lifted in this moment.)

夢日記完

今を大切に生きよう!






追記:
この夢は、様々な実体験の整理でもあることだろう。ただ、夢である以上は全てが事実そのものではなく、頭の中での何かのプロセスでREM睡眠中に映画のように認識される、この映像自体は一種のフィクションにも似ていることだろう。これは、実際に起きたできごとの忠実無比な写しではない。

以下は、目が覚めた後に自分なりに夢の背景を考えた時の内容。

父は実際、私が勤務初期の頃に亡くなっている。色々記憶があるが、久しぶりにトイレに歩いて排便しに行き、同日の数時間から半日後くらいに息を引き取った。この最期の呼吸は、今でも非常に鮮明に記憶している。亡くなったのは、私の院内ではない。当然、私が一人で解剖していない。そもそも、病理解剖はされていない。
最近、日野原重明先生(聖路加の院長)の「死をどう生きたか」という書籍を読んでおり、終末期の患者さんのエピソードと病理解剖の簡略化した所見が載っている。
私は病理解剖肯定派だ。自分も死後中立的第三者機関で病理解剖されたいし(事件でないことを祈るが、その時は司法解剖)、家族も知人も解剖したい。依頼は躊躇しない。自分で切開するのは、多分「ちゃんと状況を的確に理解してあげるからね」と、解剖による生前の状態の最大限の理解を真心のこもった誠意として考えるだろう。(身体は正直だ。直接的な死因以外も、様々な身体状況が分かる。これは、遺言や生前の言葉よりも本人を表すかもしれない。)私は解剖から、死者の生前の状況を読み取ることは、なによりも深くて真っ直ぐなコミュニケーションだと考える。
夢に出てきた友人は移植修業中。
最近、私は重要な行動を取り、極々限られた仲間内でしかその内容は共有していない。そして、現在必要な行動と最もリスクが少ない方法に思考を巡らせてはいる。
まぁ、私はきっとかなり子供っぽいし、そのことに自覚もある。正直、患者というのは特殊な立場だし、ある意味成長が止まっている部分もきっとあろう。同時に、実に様々な経験をしてきても、心の中の子供が健在なことは誇りにも思っている。私以外の人ならば、精神が何度も何度も崩壊していてもおかしくないくらいの状況でも、結局は切り抜けて復活している。そんな中でも、"大丈夫"な自分自身を凄いとも思っている。私のコアは変わっていない。これは、宝でもあり、一種の強さだとすら私は思っているんじゃないかな? その中で、やはり気持ちと思考の整理は重要なのだろう。夢は重要だ。そして、睡眠もとってもとっても重要だ😊 

今を大切に生きよう!

ぜひサポートよろしくお願いします。 ・治療費 ・学費 等 に使用し、より良い未来の構築に全力で取り組みます。