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「もしもの時について」のお話しは気軽に全ての人が幼少期から考え、話し合うべきだと思う理由

「もしもの時」これは全ての人に訪れます。

余命宣告を受けて、予期した進路を辿って亡くなる人ばかりではありません。

よく仮定の話に「余命1年と宣告されたならば」と出て来ます。しかし、考えても見てください。

いきなり「余命」、これが言われた後に今まで考えていなかった「人生」・「命」・「延命治療」・「終活」と「最大限生を満喫する生き方」を同時に模索することになるでしょう。

そして、そう都合よく1年という期間を与えてくれるでしょうか?

一年。これは、ある程度やりたいことができ、心の整理がつくかもしれない時間ではないでしょうか。だから、仮定の話で出す長さは、1年や3年と個人差がありますが、本人が最低必要で、無意識に都合のいい時間を考える人が多いように感じます。

「もし、余命1年と言われたら」と例え話しをする場合には、それ以外の想定も考えてください。

だって、1年も前から正確に命の長さを予想することなど不可能です。

統計でとある疾患ではこれくらいの時間生きる人が多いということが分かったにせよ、それは個人差があってと当たり前。余命宣告よりずっと長く生きる人もいますし、皆がもっと時間があると思っていたにも拘らず急に、という人もいます。

そして、確かに「余命宣告」される事態も深刻です。しかし、時間的な猶予はあります。

一瞬で天地がひっくり返る大病・大事故。

突然脳卒中で倒れる人も大勢いますし、さっきまで元気だったあの人が、突然事故に遭うことだってあります。

あなたが一瞬で生死の境に立たされた時、あなたは何を望みますか?

あなたの最も大切な人が、次の瞬間意識がない事態になり、病院での決断は全てあなたに委ねられます。

その時「大切な人」がどうして欲しいか知ってますか?

脳死になった時、他人を助けたいと思う優しさがありましたか?
脳死になっても、誰かのために何かしたいと思う人でしたか?

逆に、建前では移植のドナーになることに肯定的っぽいことを言っていたあの人が、内心では自分だけは臓器提供を断固拒否する気持ちを抱いていましたか?

生前偉大なことを成し遂げていないし、死ぬ時くらい「移植のドナー」として活躍したいと思っているなんてことありますか?

そんな風には見えなかったけれど、実はセルメモリーをまんざらでもないと思い、「誰かの一部になって生き続けたい。」って隠れて思っていることはありますか?

突然の電話で朝元気だったあなたの大切な人が、今は生死を彷徨っていて、あなたが病院に到着するまで待てない。直ぐ駆け付けるように言われると同時に、蘇生に関する切迫した決断を迫られた時、治療を全ての決断をできますか?

できなくても、全ての決断を背負わなければいけなくなる状態もあります。

誰であろうと、次の瞬間が決まってなどいません。

もし、今その「無理な決断」を迫られて途方に暮れていたとしたら、それはあなたのせいでも、誰のせいでもありません。

いつ誰に何が起きるか分からない。それが現世でしょう。

こんなことが現実に起こり得るのが人生だからこそ、子供のうちから死生観を育み、どう生き、どう死にたいのかも考えることが大切ではないでしょうか。

そして、考えは時と共に変化するものです。日々の会話の中に、必然的に訪れる「もしもの時」の話をしておくのはいいことではないでしょうか。いや、必要性が高いのではないでしょうか。

ちょっと話づらい方々は、何かの時…そうですね、新型コロナのニュースで流れた時にふと「もし、自分や親が新型コロナで生死を彷徨ったら」とか「新型コロナじゃなくても、事故で危篤になったら」とか、「確実に後遺症が残るであろう状況下での延命や救命についてどう考えるのか」、「臓器移植のドナーになりたいのか、どっちでもいいのか、なりたくないのか」などの様々なことを話してもいいと思います。

「死を意識させられた人は考えるキッカケがあっていいね」と他人事のように素通りするのではなく、必ず我が身にも、家族や恋人、友人達にも降りかかる現実として、少し立ち止まって考えてみませんか?

そして、その大切な考えを大切な人に伝えてみませんか。

私の死生観は↓


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