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セクシャリティ。

幼い頃から何を恥じることもなく
私はLGBTの一員だった。

政治家先生達の某パーリィー界隈では、
どうやら我々は精神疾患等と謳われ、
忌まわしき存在と化しているようだが、
時差ボケで睡眠薬にお世話になった他、
現在・過去・未来に於いて、
精神疾患と診断されたことは
残念ながら只の一度も無い。

もしかしたら
モノホンの検査を受けたら
そう診断されるのかもしれないけれど
何れにせよ 社会で生きていくのに、
何ら支障を来たすレベルではない。

(  裏でコソコソ悪口を言うなら
選挙の票集めの為に
LGBTに理解のあるフリなんて
しなきゃいいのにネ。
なるほど、自分の力で票を集められない
残念な方々が宗教票を頼るわけです )

ともあれ、
自らが同性愛者であるということ、
これが先天性なのか後天性なのか、
そんなことは知らないし、分からない。
だから説明もできない。

物心がついた時から同性が好き。
だって柔らかくて、優しいんだもの。
そうね、匂いも、イイ。
パパ活している政治家先生たちよりも
私たちの方が遥かに女を抱いてる。
し、抱かれてる。たぶん。

ごめんあそばせ。

話が逸脱したので原点回帰。
それが政治家先生たちのに言う
「ふつう」からは
至極かけ離れていることも
ちゃんと分かっているけれど、

申し訳なき。

改めて盛大に期待を裏切り、
私は 特段 差別をされたり
故に悩みぬいたり 苦しんだ覚えも一切ない。
それに、貴方たちに認められる為に
生まれてきたわけでもないし、
生きているわけでもない。

親や家族、
友達や自分が生きているコミュティ、
そこに否定されることほど
悲しいことはないのかもしれないけれど、
貴方たちと袖振りあう確率の方が
低いでしょうからねぇ…

ちゃんと
納税もしているし、
年金も払っているし、
選挙にだって行ってる。

では

なぜ、私がLGBTの一員なのか?
それは、私が生まれ育った時代背景に
大きく起因していると言よう。

例えば 幼い頃 同年代が
こぞって夢中になったアニメには
フェミニンな女性と 中性的な女性の
恋愛要素が描かれていた ........ し?
そうね、そういうものに影響された?

…ううん、違うかも。
思い返してみたとしても、
そんなことは無いかも。

殺人ゲームをプレイしたからって
殺人鬼になんてならないし。
リセットボタンを押したところで
何一つリセットできなくて、
現実が変わらないことだって知ってる。

よくよく振り返れば
所謂 強く勇ましい少女や
男装の麗人を描く漫画は大昔から有るし、
舞台でいうと宝塚歌劇だって有るわけだから
大してカルチャーの影響なんてないのかも。

だって!

その類の漫画や舞台が
一世風靡した時代とは
一線を画した座標で育っている。

では育った環境は、どうだろう。

私が生まれ育った時代の母親たちは
自分たちが「 うちはうち、余所は余所 」
「家の為に家の用事をしなさい!!」
という言葉に縛られ抑圧されたことを忌み嫌い
「 貴方は貴方らしく生きる事に意味が有る 」
と、いう言葉をスローガンに子育てをした。

(我が家はそうでもなかった。
どちらかというと古き良きを好み、
厳しめに教育されたように思う。
ところが隣の芝生は黄金色に見えるもので、
同級生は自由にのびのびしていたように思う。
かく言う私も、十分のびのびしていたが、
一歩、外に出てみると
“え!そんなのいいの!?”なんてことに
遭遇することが多々多々有った。)

勿論
その時代の母親達が掲げたスローガンが
強引に社会に変化を齎したわけではなく、
そのように育てられ社会に排出された若者たちが
自然と国を変えていく礎になるということは
至極 当然の流れと言えるし、

( ところが、この国の老兵さま方は
中々ご自分の椅子をお譲りにならない
という問題点はさておき )

家庭レベルで起こった
小さな小さな変革の竜巻が、
学校や社会で台風の目になりうるまでに
それほど時間を要さなくて当然ではないだろうか。

「 貴方は貴方らしく生きる事に意味が有る 」
そう、このスローガンが いつからか
そこかしこで見聞きする言葉として表現されはじめ、
同時に、これまで背徳的とされたことをも、
許されるようになった…ううん、違うな。
新しい常識ができ、通用し始めていた。

そう、私が育ったのは
 あらゆることが「通用し始めていた」
一番 入口の、曖昧な時代だった。

そして それはLGBTだけではなく
その他のマイノリティに対しても同じだった。
常にオリコンチャートを独占し続けたJ-popも
“ No1にならなくていい、
元々特別なOnly one ” と歌っている。

どうでもいいけど、私はこの歌が大嫌い。
誰かと競争して負けたって泣かないし、
ちっとも悔しくはないけれど、
競争する心は大事だと思うから。
温室育ちの薔薇になんてなりたくない。
どちらかというと小さく控えめな
雑草の方が好き。

( 加筆するならば
インターネットが急激に普及し始め、
当たり前にPCや携帯電話に触れられる環境で
当たり前に見ず知らずの人と
交流が出来たということも大きい。)

一寸、軌道修正。
大事なことだからもう一度綴ろう。

そう、私が育ったのは
 あらゆることが「通用し始めていた」
一番 入口の、曖昧な時代だった。

ところが それを
容認する派と 容認しない派が
色濃く鮮明に二分化されて存在しており

まだまだ
あからさまな差別が蔓延していたし
風当りも強かったし、

その一方で、
何か一言でも間違えようものならば
世界中からバッシングを受ける
今の時代とは 比べものにならない程
その 定義は緩く 脆く
まるで不完全な緊縛ショーのようでもあった。

指先でツンと押し倒せば
あっと言う間に地面に落ちて割れてしまう
ハンプティダンプティさながら。

色に例えるならば
賛成派の白組と 反対派の黒組…
それからそうね、
グレーの我々に きっぱり分かれていたから
二分化ではないのかもしれない。
三分化と言っても過言ではない。

元々 対照的なものは左右に始まり、
白と黒?善悪もしかりね。
いずれにせよ 二手に分かたれるのが常だが
この時代は違った。
容認する派と 容認しない派。
そしてこの時代に生まれ育った私たちは、
どっちつかずで、グレーを纏っている。
そう、きっぱり綺麗に三手に分かたれていた。

断っておくと、
そんな折に生まれ育ったから
特別だと言いたいわけではない。
Ethnocentrismになんて興味ない。

ただ、生き易かったかと問われれば
寧ろそれは真逆で
白でも黒でもなく グレーである自分達を
認めてもらえる場面も有れば
それを非難される場面も有り

コレはいいのか、はたまた
コレはダメなのか
ドレがよくて、ドレがダメなのか
グレーである我々は 常に戸惑いながら
手探りで生きる必要性が有ったと言える。

( 今の時代は更に
何十、何百という具合に細分化されていて、
更に生きにくいのではないかと 懸念する。
私達が生きた時代は
あくまで足枷有っての自由が当然だったが、
今は 何でもアリで 統一感もなく
わちゃわちゃしているように思うのね。)

何をしても 新人類と呼ばれ
話が噛み合わない等と揶揄されることもしばしば
( ※But、ゆとり世代ではない )
ところが一方で 最も柔軟性に長けた時代に
育ったとも言えるのではないかと思う。

何故なら 頭の固い
昭和の頑固おやじたちの美学も理解できるし、
なんでもアリの若者の言葉や流行も
受け入れて理解できるてしまうからこそ、
まぁ、見て見ぬフリも得意であると言えよう。

だから
今でこそ くだらないバラエティ番組も
当時は 常軌を逸したものが平気で放送されていたし
不倫・メンヘラもののドラマなんてどんとこいで、
報道番組でさえ 今よりもっと
リアリティに溢れていたようにも思う。

何がどうそうさせたのかは さておき
随分 長い前口上になったが
冒頭でも触れた通り 有りがたいことに
私に至っては 特段 差別をされたり
故に悩みぬいたり 苦しんだ覚えは一切ない。
だからこそ、きっぱり言える。
私が同性を愛することに理由なんてない。
“ 好きになった人が好き ” それだけ。

勿論 それが 一般的に言う
「ふつう」からは
かけ離れていたことを知っているからこそ
自分なりに 周りの大人に対して
答え合わせしてきたつもりだ。

例えば “ おんなのこがすき ”

至ってシンプルな プラトニックな
淡い恋心について祖母に相談したことも有れば
ボーイフレンドが出来た時に
イマイチ相手を好きになれないことを
母親に相談したり etc

ところが 私の周辺の大人たちは
それについて否定することは無かった。
非常に恵まれた環境だったと言えよう。

だから 私は当たり前に
恋人が女であろうが 男であろうが 
家族や友人、知人に紹介出来る。

反対に
自分のセクシャリティについて
悩みぬき 苦しんだ友人も沢山居た。

故に、このの世界を泳ぐ人の大半は
どこか不安定であることは確かだと思う。
それが性同一性障害ならば
肉体と精神の不一致や乖離がそうさせるのか、
或いは 何かトラウマやPTSDを抱えたことにより
異性を愛せなくなった経験がそうさせるのか。

はたまた 何でも容認されるようになりつつ有った
入口の時代で育ったからこそ
どこか夢みがちで
妄想がちであることがそうさせるのか。
兎角、精神が不安定になり 命を絶つ人も多い。

でも、それは後天的な、
或いは自らがマイノリティであると
気づいてから起こるもので、
先天的な事情ではないように思うから、
やはり政治家先生たちの言うご意見は
大いにズレていると感じる。

地を這うように 自らが何者かについて
考え続ける者も ちらほら。
そりゃそうよね。
人は皆、自分のルーツを知りたがる。
私だってそうだし、
これを読む貴方だってそうだと思う。

つまり コレはいいのか、
はたまた コレはダメなのか、
ドレがよくて、ドレがダメなのか
そればかり考えて育ったという背景が仇になり
浮世離れした哲学を持つ者も多々。

ところが今は、
パートナーシップ等、
想像しなかったことが起こっている。

余談だが、

「認められたい」と言う人が居るけど
私はその言葉が大嫌いだ。
(それはその人たちを否定しているのではなく、
完全に私の好みの問題で。)

それは とても狭い世界で
生きている人が言う言葉のように思えてならない。
或いは そこに固執・執着する執念を感じさせる。

その発想こそが
自らで自らを差別している
という風に思えてならない。

認めてもらえない自分たちを
自分たちの思想で
可哀想な存在にしてしまっているではないか。
何事も行き過ぎては見苦しく、美しくない。
この世には、確かにマイノリティも存在する。
だけど、その真逆も存在していて共存している。

例えば 認められない側には
認められない理由が相応に有るように思う。

公共トイレに入ったとしよう。
自分は女性だから、もちろん女性用の。
ところがドアを開けた瞬間に
姿は女性の服装を身にまとっているけれど、
明らかに性別は男性が立っていたとして…
怖くない?怖いよね。

戸籍上は男だけど、心は女だもの!
って、言われなきゃ分からないし、
世の中には“へんたい”だって存在する。
何事も想像力の問題だと思う。

( だから LGBTに於ける 様々な法案の可決や
或いは精神・思想・哲学については
改めて時間が有る時に 綴りたいと思う )

そもそも
誰に認められる必要性が有るというのか。
親や兄弟や自分が生きているコミュティくらいで
いいんじゃないの?
そこに否定されて悲しい人の心は
今すぐにでも救われるべきだと思う。

But、同性婚だけは認めてほしい。

だってね、
もしパートナーが突然死したとして、
病院で遺体を引き取ることも叶わない、
お葬式で喪主を務めることもできない、
全てが相手の名義だった場合
住む場所も、何もかもが無くなるのよ?
貯金だって、個別にしてたらいいけど、
一本化してたら最悪よね。

それは、良くないよね。
健全ではないよね。
同性であろうが、異性であろうが、
一生を共にしたいと思う相手と結ぶのが
“結婚”という契約であり儀式だと思う。

そして、
結婚する時って必ず証人が必要でしょう?
あれって、偽装を防いだりする為にあるわけで。
つまり“この2人は間違いないです”って、
第三者からお墨付きをいただいて初めて
婚姻届けが出せるのよね。

断っておけば
恵まれた環境だったから
セクシャリティを貫いて来れたし
こうして思うことを綴れるだけなんだけど。

あとは、そうね。
政治家先生たちにモノを申すなら、
バックグラウンドは一切関係ない。
そして 社会の中でもそうだけど
どんな場所でも当たり前にカミングアウトするか?
と、言えば そうでもない。
私は、ちゃんと考えてカミングアウトする。
知ってほしくない人には知られたくない。

ところが、誰に認められなくても
結局 私は同性を愛したし 貫いている。

つい最近になって
なんとなく自分なりに悟り始めたのは
自分らしく生きる上で肝心なのは
セクシャリティでもなければ 外見でもなければ
年収でもなければ 生い立ちでもないということ。

マイノリティであるか、そうでないか、
カテゴライズなんてもっとどうでもいい。
人が人を愛する営みこそが 尊い
ということをちゃんと知っているか否か、
同時に自らが何者なのか、
何者で在り、何者に成りたいのか。

その思想や哲学を想い、耽り、探求し、追求し、
ブレずに歩いて行けるかどうか。
そっちの方が遥かに
大切なのではないかと思う今日この頃である。

何故なら 人生は一度きりだから。
何故なら 私達が私達であることが出来るのは
無限ではなく有限でしかない。
嫌われようが、疎まれようが、
指を指されようが、なんだろうが
ちゃんと 自分自身を貫ける意思の強さが有れば
誰かに認めてもらう必要もなければ、
何も怖いものなど無いと思う。

でも、お願いだから、
同性婚だけは認めてほしい。

扶養に入るとか入らないとか
そういう算数の話はどうでも良くて、
単純にね、
愛する人の人生に責任を取りたいの。
それだけ。

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