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ユーラシア史―②壁の向こうの世界

壁の向こうにいる敵

漫画『進撃の巨人』は、壁に囲まれた世界から物語が始まる。100年以上も破られていなかった壁が、ある日突然巨人によって突破される。物語が進むにつれて、巨人の謎、壁の秘密、壁の外の世界が徐々に明らかになっていく。そして、物語も終盤に差し掛かった頃、いきなり語り手の視点が壁の外側へと移る。あまりの切り替わりの唐突さに、別の作品かと錯覚してしまうほどだ。そこには、壁の中とは異なる歴史観を持つ人々がくらしていた。壁の中に住む自分たちのことを、まったく異なる文脈で捉え、強烈な憎悪の念を向けていたのだった。

作者の諫山創は、歴史を通じて、人が一方的にしかものごとを見ようとしないこと、それが絶え間ない抗争を生んできたことを意識して、このような物語構成にしたのだろう。ニューヨーク・タイムズへのインタビューで、「戦いの終わりという結末は、わたしたちが今生きている世界ではあり得ず、物語を陳腐にしてしまう。それは悲しいことですが、ハッピーエンドはあきらめなければなりませんでした。」と答えている。

歴史を残した人々、残さなかった人々

ユーラシア大陸に目を移すと、巨大な勢力圏を築きながら、歴史を文字で残した人々と、残さなかった人々に二分される。古代文明は、乾燥農耕の世界から発祥した。チグリス・ユーフラテス流域、ナイル流域、インダス流域、黄河流域、地中海沿岸。内陸の縁辺に広がる、かろうじて農耕が可能な乾燥地で文明が生まれたことは、とても興味深い。

こうした土地から文明を発展させた人々は、歴史を残すことに熱心だった。彼らが歴史を残した意義を考えてみたい。まず思いつくのは、出来事の再現性を見出し、過去から学ぼうとしたこと。乾燥農耕というのは、極めて不安定だ。過去にどのようなパターンで干ばつが起きたのか。自分たちの土地の周辺にどのような人々がくらしているのか。先人はそれらの問題にどう対処したのか。記録を残すことで、環境を知り、敵を知り、先人を模範とすることができるだろう。

次に思いつくのが、支配者たちが自分たちの優位性、正統性を証明しようとしたこと。人が人を支配するためには納得できる理由がいる。この土地を開き、世界に秩序をもたらした英雄的祖先(あるいは神)の血統を証明することが、その理由のひとつになる。さらに、その支配を覆し取って替わるには、いかに前王が悪逆非道で、いかに自分たちの方が正統であるかを書き記し、後世に伝えることが重要となる。

一方で、歴史を残すことに価値を見出さなかった人々が、ユーラシア大陸中央部のおよそ農耕に適さない場所にくらしていた。騎馬遊牧民と呼ばれる人々だ。彼らは文字を持つ文明圏と境界を接しながら、記録を残すことをしなかった。彼らは常に移動しながらくらしているため、なるべくモノを持たない。当然、文書を蓄積・保存するための施設もない。歴史はおろか、建物もインフラも残さなかった。

そのため、彼らのことを知ろうとした時、歴史を残した側の視点から見ることになる。そこには、自分たちの優位性を前提とした蔑視や偏見が入らざるを得ない。蛮族、破壊者、非文明的。わたしたちが学校で学ぶ歴史も、これらの文書をベースにしているため、知らず知らずこうしたフィルター越しに遊牧民の世界を見てしまうことになる。だが、果たしてそれは客観的な視点と言えるだろうか。

ヘロドトスと司馬遷

ここで、騎馬遊牧民の世界を記述した東西二人の歴史家から、彼らの文明を見てみたい。一人目はヘロドトス。紀元前5世紀に生きた古代ギリシアの歴史家である。彼の眼差しは、当時現在進行で起きていた「ギリシア世界対ペルシア帝国」の戦いを記録することにあった。そのためには、敵であるペルシアとその周辺に住む人々の起源、風俗、組織などを知る必要がある。ヘロドトスは「歴史の父」として名を残しているが、著書のタイトルであり歴史の語源となった「ヒストリアイ」とは、本来調査・探検を意味する。ヘロドトスには、今で言うところの「歴史」を書くという意識はなかった。その彼が、ペルシアの北方に住む遊牧民「スキタイ」について記録を残している。

二人目は司馬遷。紀元前100年前後に生きた中国前漢時代の歴史家である。著書『史記』は、伝説上の五帝時代から彼が生きた同時代の武帝まで、3000年を記した歴史書だ。国家によって正式に編纂された第一の正史とされている。この中で、漢帝国と対立していた北方騎馬遊牧民である「匈奴」について、生き生きと描写している。中国における正史は、王朝の正統性を担保する極めて政治色の強い史料だが、司馬遷の眼差しは客観的態度と好奇心に満ちており、同時代の人々からはしばしば匈奴びいきとして非難されたほどだった。

ヘロドトスが語るスキタイ

騎馬遊牧民が力を持った組織集団として確認できるのは、前8世紀頃と言われている。それはスキタイ文化と呼ばれ、独自の動物文様に彩られた装飾品、馬具や武器が発見されている。ヘロドトスが残したのは、前514年頃に起こったペルシア帝国による対スキタイ遠征の記録である。

時の王はダレイオス一世。後に続く世界帝国の原型を生み出した人物である。帝国全土に渡る統一税制、度量衡の統一、貨幣経済の導入、幹線道路の整備、総督による分割統治と中央管理による行政組織などにより、多種多様な人間集団を緩やかにまとめ上げ、巨大帝国を築きあげた。後のローマ帝国、秦漢帝国の統治機構は、ダレイオスが築いたペルシア帝国の統治システムを礎としている。

そのダレイオスが、長く懸案となっていた北方遊牧民勢力を抑えるべく、70万もの大軍を引き連れて、スキタイの支配領域へと遠征した。場所はカスピ海と黒海の北方に広がる大草原地帯。侵攻するペルシアの大軍団に対し、スキタイ軍は正面決戦を避け、意図的な撤退作戦と焦土戦術で奥地へと誘い込んだ。そして、騎馬兵の機動力と騎射によるヒットアンドアウェイ作戦によってペルシア軍の戦力を削り取っていった。徐々に損害が甚大なものとなり、ダレイオスはとうとう撤退を余儀なくされた。かくしてスキタイ遠征は完全なる失敗に終わった。

ここで記された騎馬軍団による機動力、騎射戦術を活かした戦法は、それ以降の匈奴、突厥、そしてモンゴルに引き継がれ、およそ17世紀以降に銃火器の大量投下が可能になるまで、最強の軍事力となり猛威を振るうこととなる。

ここに、今までとは違った新しい世界史の見方が立ち表れてくる。わたしたちは、当時の世界帝国であるペルシアと、西洋文明の源流をなすギリシアとの戦いという構図で、この時代の潮流を読み取ってきた。だが、騎馬遊牧軍団を中核とする連合国家スキタイの存在に注目した時、南で興った定住型帝国の原型と、北方で興った遊牧型帝国の原型が対峙する世界構造が見えてくる。むしろその後のユーラシア全体の潮流を踏まえると、この帝国原型の二大パターンが生まれたことの方が、歴史の主脈を捉えている。

そして実は、ペルシア人という集団もアーリア系の遊牧民を起源としている。南北で成立した二つの大型国家は、どちらも騎馬遊牧民の軍事集団が形成の鍵を握っていた。南に向かった騎馬遊牧民が農耕民と都市を取り込み定住型帝国を築いたのに対し、北へ向かった騎馬遊牧民はそのまま移動と遊牧を行いながら、連合体を築いていったのだ。

司馬遷が語る匈奴

この二大帝国パターンの対峙構造は、数百年遅れて東方にも伝わっていく。中華世界がまだ分裂していた頃、匈奴と呼ばれる騎馬遊牧民が次第に力をつけてきた。それに対抗すべく、趙の武霊王が「胡服騎射」と呼ばれる遊牧民の騎射戦術を取り入れたのだ。その戦術は次第に他国へも広がり、中華統一の大きな力となっていった。各国は互いに争いながらも、北方の脅威に対し長城を築き防衛線とした。

始皇帝により中華の統一がなされ、その死後間もなく崩壊し、項羽と劉邦が争う楚漢戦争に突入した頃、匈奴の世界に一人の英雄が生まれる。その名を冒頓という。その冷静で無慈悲、果敢なリーダーシップによって、瞬く間に草原世界を制圧し、広大な匈奴帝国を築きあげた。そして、冒頓率いる匈奴と、成立間もない劉邦の漢が激突したのが、「白登山の戦い」である。攻め入る漢軍に対し、冒頓は偽って敗走し、劉邦の追撃を誘った。そして、まんまと先攻して主力から切り離されてしまった劉邦を白登山に囲いこんだ。漢軍の完敗である。以降、体裁の上では対等とするものの、漢は匈奴に対し公主(皇女)を差し出し、膨大な貢物を送ることでなんとか和平を保つ。これは事実上の属国である。その状況は武帝の頃、つまり司馬遷が『史記』を書いた時代まで続いた。

それにしても戦闘パターンがペルシア対スキタイと似ている。強力な指揮系統によって率いられた騎馬遊牧軍団には、定住型農耕国家の軍はぜったいに勝てない。彼らは生まれた頃から全員が騎兵であり、日々の生活が軍事訓練を兼ねている。そもそもの兵の強力さが段違いなのだ。

加えて草原統一を果たした匈奴は、驚くほど整然としたピラミッド型組織をつくっている。軍の最大単位が万人隊、その下が千、百、十と、十進法に基づいた組織で統制されていた。そして合計24人の「万騎」と呼ばれる指導者に率いられた軍が、左、中、右に分かれて展開していた。単于(匈奴の皇帝)に率いられた中央軍団が本拠地モンゴル高原に位置し、東に左賢王を頂点とした軍団、西に右賢王を頂点とした軍団を翼を広げるように展開させた。彼らは常に北から南へ向いているため、左が東で、右が西になる。最盛期では、東は朝鮮の北方から、西は天山山脈を越えた中央アジアまで版図を広げた。

十進法による組織体制。南に向かって左、中、右に展開する三大分割体制。そして24人の「万騎」たちによって多元・多種族をまとめ上げる連合権力体制。こうした匈奴帝国の特徴は、その後ユーラシア大陸に興亡する遊牧国家の共通パターンとなる。その最大のものがチンギス・カンに率いられたモンゴル帝国だった。

こうして東方においても、騎馬遊牧民による遊牧型帝国と、農耕民による定住型帝国が対峙し、ときに混じり合い、興亡を繰り広げる歴史が、以降2000年ほど続いていく。

こちらとあちら

人間は世界を認識する際に、まず初めに「こちら」と「あちら」に分ける。つまり境界を築くことで、自分や自分たちを認識し、それ以外のものと分ける。多くの場合、「こちら」は物理的に分かれているわけではない。内側で価値観を共有することで、「こちら側」である共通意識をつくっていくのだ。

例えば華夷思想。「こちら」である華と、「あちら」である夷を一方的に分けて、「こちら」の連帯を強化する。万里の長城というのは物理的な壁に意味があるというよりも、何が何でも「こちら」と「あちら」線引したいという観念的な境界である。ギリシア世界のヘレネスとバルバロイの線引きも同じだ。価値観の境界が、宗教や民族、イデオロギーになることもある。

こうして人々の間に壁が築かれる。壁の内側にいる人は、自分たちが共有する価値観フィルターを通して世界を見る。むろん、壁の反対側にいる人も同様である。価値観が共有できない相手というのは恐ろしい。決してわかりあえない巨人のようなもので、不信と憎悪を募らせてしまう。

わたしたちには、固着した価値観を取り除いて、ものごとを純粋に見ることはできないだろう。それは世界を認識するためのフレームそのものだし、内側をまとめ上げている力でもあるからだ。ただ、自分たちが価値観のメガネごしにものごとを見ていることを意識し、時々疑ってみることは必要だ。そして、相手がかけているメガネから世界がどう見えているのかを想像することもできる。きっと、そこから対話が始まるはずだ。

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