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パフォーマンス・音楽・アートの扉_culture

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身体という物質性、知覚の直接性に興味があります。 目と耳、そして皮膚感覚。 それら刺激に満ちた世界。
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記事一覧

【映画・音楽評】 リュック・フェラーリ……ほとんど何もない Presque rien

リュック・フェラーリLuc Ferrari(1929〜2005) フランスの作曲家、映像作家。特に電子音楽で知られる。 映像作家としてのフェラーリ作品が上映される機会は、日本ではほとんどない。研究機関や特別な上映会においてのみである。 リュック・フェラーリ『ほとんど何もない、あるいは生きる欲望』 Presque rien ou le désir de vivre ドイツ(1972・73) 第一部 コース・メジャン Le Causse Méjean 第二部 ラルザック高原

【美術評】 マヤ・ワタナベ 《Suspended States 滞留》 Part.2 『停滞』

本稿は マヤ・ワタナベ『Suspended States 滞留』Part.1『崩壊』の続編です。 マヤ・ワタナベ『停滞』9分ループ(2018) Covid19による都市閉鎖、自主隔離、自由な往来の制限といった行動抑制は、二項対立〈生存/非生存〉における二者択一という選択である。その状況においてわたしたちは、行動抑制による〈生存〉を選択したのだ。生存という生の持続のためのある種の選択の要請。戦後、とりわけ日本において、このような生の選択を迫られることがあっただろうか。 こ

【美術評】 マヤ・ワタナベ 《Suspended States 滞留》 Part.1 『崩壊』

マヤ・ワタナベ『崩壊』9分ループ(2017) 映像インスタレーション 本作の映像インスタレーションは生と死へと向ける視点への接近なのだが、見ること自体への言及でもある。世界は視線によって分節化され、そのことで世界は意味の存在を現し、視線によって世界は解体される。 “マクロ” と “ミクロ” を同時に見ることはできないということ。 この稿では、本作を、眼・見ることの観点から述べてみたい。 “表/裏” 二面のスクリーン。”表/裏” と言っても、どちらが表なのか裏なのかは意味

【ライブ】 clammbon 20th Anniversary「tour triology」

×月×日 これから《clammbon 20th Anniversary「tour triology」》に大阪へ。 クラムボンは原田郁子の歌唱と詞に惚れてファンになったのだが、コンサートには一度も行ったことがない。今回がはじめてで少し興奮している。原田郁子の歌声にわたしはどうなるのか。 わたしはコミュ障ではないのだが、人混みは気にならないのに、知る人のいない集まりには行きたくない。たとえ行ったとしても、その中の会話に入るのが嫌だ。入る勇気がないわけではないけれど、見知らぬ人

【美術評】 ダグ・エイケン『 i am in you』金沢21世紀美術館

ダグ・エイケン『i am in you』(2000年) 中央に1つ、周辺に4つのスクリーンで構成された映像インスタレーションである。 アメリカ郊外の日常的な風景が映し出されている。タイトル『 i am in you』は英語的に日常的な表現なのか、それとも詩のような表現なのか、わたしの英語知識では判然としない。 「わたしはいる、あなたの中に」 わたしという存在はあなたの中に本当に在るのだろうか。そして、在るとすればどのように在るのだろうか。物語の登場人物は少女のみ。そのほか

【映画評】 ペドロ・マイア監督〜アナログ・シネマ〜WASTE FILM(考)

ペドロ・マイア監督〜WASTE〜アナログ・シネマ〜覚書 1983年ポルトガルで生まれ、現在はベルリンに在住する監督ペドロ・マイア(Pedro Maia)。 アナログ・シネマを主なコンセプトとして作品を制作する前衛映像作家である。 アナログ・シネマとはデジタル・シネマの対概念でもあるのだが、いわゆる〈フィルム/デジタル〉という対立項に回収されるものではない。 〈フィルム←→デジタル〉変換ラボで働くペドロ・マイア。 彼がアナログの技術性・芸術性を自覚的にアプローチしたのは2

【ダンス評】 モノクロームサーカス『TROPE』、『P_O_O_L』他

京都のダンスカンパニー、モノクロームサーカス(MonochromeCircus)。2013年の公演なのだが、『TROPE』を不意に思い出すことがある。それは、日常の道具の意味について。道具はそれ自体としてあるのではなく、わたしたち使用者との関係で予め意味が付与されており……たとえば椅子は腰掛けるための道具、ハンマーは打ちつけるための道具……わたしたちの存在なくして、道具に意味はない。それは道具に限ったことではないだろう。近代(そして現代)の人間中心主義の世界においては、人間と

【映画評】 熊切和嘉監督『光の音色 THE BACK HORN Film』

紋別を舞台にした『私の男』、函館を舞台にした『海炭市叙景』。両作品で北海道出身者であればこそ可能な北の鮮烈な映像を呈示した熊切和嘉。彼と撮影監督・近藤龍一の生み出す映像には、明治以降の人間模様の堆積した時間、生とは自然との落差でしかないという厳しい地誌、それらが大気の中に溶け込んだ風土としての残酷なほどの美しさであった。そんな稀有な映像美を生み出した熊切和嘉監督が、撮影監督に橋本清明を迎え、オルタナティブロックバンド《THE BACK HORN》とタッグを組んだ映像作品が『光

【美術評】 原田裕規『Waiting for』についてのレポート@金沢21世紀美術館

写真=金沢21世紀美術館 以下の文は金沢21世紀美術館|アルベルト14で開催されている原田裕規『Waiting for』の映像作品についてのレポートです。 会期:2021.6.15〜2021.10.10 (レポート1) 荒涼とした風景がゆるやかなカメラ移動で映し出される。湖や草木もまばらな彩度を落とした地上の風景。水や草木といった有機物は存在するものの、人間はおろか動物でさえ生きてゆけるのだろうか不明な大地。大気の移動を感じさせる風の音はあっただろうか。思い出そうとして

【映画評】 中村佑子監督『あえかなる部屋、内藤礼と、光たち』

1)終わりの始まり ドキュメンタリーを製作する監督の思考はどのようにあるのか、いつも不思議に思う。フィクションならば始まりと終わりがある。それがとりあえずのものであったとしても始まりがなければフィクションは成り立たないし、終わりも然りであるから、それらは明確にある。だが、すでに〈在った/在る〉ものを対象とするドキュメンタリーに始まりと終わりはあるのか。私という生は既に在りこれからも在るのだから、そこに始まりと終わりを設定するのは在るという事態に切断を施すように残酷な行為のよう

【ライブ】 ドラムデュオ〈ダダリズム〉。京都のライブハウス「外 soto」におけるライブ

(写真=Arts Support Kansaiより) 以下の稿は 《ケンジルビエン(KEN汁ビエン)Kenjiru Bien〜異能の身体〜》 の後編として書かれています。 スリーピースバンド〈空間現代〉の運営する京都市左京区鹿ケ谷法然院西町にあるライブスハウス「外 soto」。 彼らが作り出したこのライブハウスは、関西圏に新しい音楽シーンを引き込むエキサイティングな場として注目を集めている。 ドラムデュオ〈ダダリズム〉の「外 soto」での初ライブは、2016年9月から始

【ダンス評】 ケンジルビエン(KEN汁ビエン)Kenjiru Bien〜異能の身体〜

(写真=山形ビエンナーレ2020より。ケンジルビエン×東野祥子) 京都市左京区鹿ケ谷法然院西町にあるライブハウス「外 soto」 スリーピースバンド『空間現代』(野口順哉(guiter/vocal)、古谷野慶輔(bass)、山田英晶(drums))の運営するライブハウス&スタジオなのだが、数年前からわたしの気になるライブハウスのひとつとなっている。「外 soto」が発する文化は京都や日本というローカルの止まらず、世界へと向けた複数性・多様性として、これからも発信を止めること

【美術評】 エリプシス|フィオナ・タン『セブン Seven』(金沢21世紀美術館)

金沢21世紀美術館で開催された フィオナ・タン Fiona Tan《エリプシス ELLIPSIS》展 《エリプシス ELLIPSIS》が開催されたのは2013年8月3日〜11月10日。 フィオナ・タンの映像作品に興味を覚えるわたしは、金沢まで見に行くことにした。 本題に入る前に展覧会カタログについて。 わたしは気に入った展覧会のカタログは購入することにしているのだが、その時はどういうわけか買い忘れてしまった。それからしばらく経ち再び金沢を訪れたのだが、カタログはすでに完売

【演劇評】 《あいちトリエンナーレ2019》ドラ・ガルシア〈レクチャーパフォーマンス『ロミオ』〉、ミロ・ラウ(IIPM)+CAMPO『5つのやさしい小品』について

《あいちトリエンナーレ2019》(以下《あいトリ》と略す) 《あいトリ》は2019年で幕を閉じ、2022年から名称を《国際芸術祭『あいち2022』》に変更され、新監督に片岡真美が就任。新生の芸術祭としてスタートを切ることになった。 《あいトリ》最後の開催となった2019年《パフォーミングアーツ『情の時代』》。 演劇祭として不幸な幕となった2019年であった。政治的圧力、右翼からの襲撃と脅迫、それに同調するかのような右派政治家の発言、世論の不穏な動き等々、記憶に留めておくべ