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【映画評】ロベール・ブレッソン『白夜』…親密さと遠さの物語…

『白夜』-2

 「美しい。この長さの白いネグリジェから、親密さと遠さ、両方を感じさせる。」  

 このショット(写真)を見て、わたしの眼差しの先の女性はこのように述べた。鏡の前の白いネグリジェと素足のマルト。マルトは自らの身体を鏡に写し見つめる。
 
 そうなのです。ブレッソン『白夜』は、〈親密さと遠さ〉、そして〈眼差し〉に満ちた映画なのです。マルトは鏡に映る身体の向こうに、いったい何を見ようとしているのでしょうか。

 以下は、本作品から感じたことの日記風記述。少し長くなりますが、最後までおつきあい願えれば嬉しく思います。

2013年
1月28日(月)

 夕刻、京都シネマでロベール・ブレッソン『白夜』(原題)Quatre Nuits d'un Rêveur「ある夢想家の4夜」(1971年)のニュープリントを見る。

1月29日(火)
 「映画とはフリッツ・ラングのことである」、と述べたのはゴダールだ。
だが、今夜は、「映画とはブレッソンのことである」と述べてみたい。
 ブレッソンほどフィルムの美しさを体現させる作家はいない。ロベール・ブレッソン『白夜』のニュープリントはそう確信させる映画である。『白夜』はいうまでもなくドストエフスキーの短編小説を元にしている。私をジャックに、ナースチェンカをマルトに、舞台をペテルブルグからパリに置き換えた映画なのだが、ドストエフスキーを知る者は、ブレッソンの作法を前にして、ただ戸惑うばかりだろう。だが、原作とこの映画とを比較するのはさほど意味のあることではない。なぜなら、原作などまるで存在しなかったかのように、色の細やかな配置や、都市に響き渡る音を切り取るという手さばきの鮮やかさで、これはパリの作品であると、ブレッソンの揺るぎない断言が読みとれるからだ。
 ブレッソンを語ろうとするとき、わたしはどこから語れば良いのか分からない。どのひとつの要素をとっても、かつてあったことはなく、いったい誰がこのような映画を撮ろうなどと想像しただろうか。いや、「かつて」とか、「あった」とか、「このような」という言葉ですら、ブレッソンの映画の前では虚しく響く。だから今夜は、
「映画とはブレッソンのことである」
と述べるにとどめよう。

1月30日(水)
 やや風邪気味。熱はなさそうだが、少し喉が痛く水洟が出る。しばらく加湿器を掛けていなかったから、喉を痛めたのだろう。
 フィリップ・ガレル『灼熱の肌』、ベルトラン・ボネロ『メゾン、ある娼館の記憶』を見る予定だったが諦める。今後、京都での『灼熱の肌』上映の機会はおとずれないだろうと考えると、残念としか言いようがない。
 『白夜』について考えることにする。
覚書き(1) シノプシス
 第1夜
 セーヌ川に架かる橋ポン=ヌフ。画家のジャック(ギョーム・デ・フォレ)はセーヌの川面を見つめる美しい女性マルト(イザベル・ヴェンガルテン)と出会う。ジャックは、素敵な出会いを妄想してはそれをテープレコーダーに吹き込む孤独な青年。一方マルトは、「ぼくが結婚できる身分になり、まだぼくを愛していてくれたなら結婚しよう。1年後の同じ日の同じ時間に、同じ場所で会おう」と言葉を残し、彼女の元を去っていった元・下宿人である恋人を待っている。だが1年が経つが恋人は戻ってこない。思い詰めたマルトはセーヌに身を投げようとする。ジャックとマルトが出会ったのはそのときだ。その日から二人は毎夜、ポン=ヌフのアンリ4世像の下で、同じ時間に会うことを約束する。
『白夜』はジャックとマルトの物語であり、パリという街の4夜の物語でもある。
 第2夜 二人はそれぞれの物語を語り合う。ジャックは絵を書いていること、素敵な女性との出会いを夢想し、清純にして無垢である愛の物語をテープレコーダーに吹き込んでいることを。マルトは去っていった恋人のこと、恋人が戻ってくれば、彼の友人が知らせてくれることになっているが、いまだに連絡がないと。今日は彼が戻って3日目になるはずよ、と。ジャックは、彼の友人に手紙を託せば、とマルトに提案し、手紙を書けば友人に届けると約束する。
 第3夜 「なぜ、あなたをとても好きなのか分かる? 私に恋してないからよ」「私が結婚しても兄妹よ。彼同様、愛するわ」と、マルトの心は揺らいでいるようなのだが、なにかを恐れている。そして「涙ぐむのはあなたの優しさのせい、でも愛するのは彼」、と戻ってこない恋人への思いを再び述べる。ジャックは明日には連絡があるとマルトを慰める。
 第4夜 いつまでも現れない恋人を見限ったマルトはセーヌの階段を下り、川辺へと姿を消す。ジャックはマルト、マルトと必死に呼びかける。マルトを見つけ出したジャックは、彼女を優しく腕に包み込む。マルトは、「あの人を愛するのは今日まで、あなたはアパートを引き払って私のところに下宿してちょうだい」と告げる。二人はポン=ヌフを離れ、去っていった恋人の幻影を振り払うかのように手を握り合う。だがそれもつかの間、突如恋人が姿を現す。マルトはジャックの手を振りほどいてすばやく恋人の方に走り寄り抱き合う。マルトは不意にジャックの元に駆け戻り、両手をジャックの首にまきつけるが、ひと言も声をかけることなく再び恋人のほうに身を翻す。マルトと恋人は肩を寄せあいながら歩き出し、雑踏に姿を消す。ジャックはマルトたちの後ろ姿を見つめている。
覚書き(2) 断片集
 冒頭の、従来のフランス映画の叙情的な叙述を排した簡潔なショット。脱・説話論的ショット。
 ポン=ヌフという記号
 交差する眼差しと遮断される眼差し→交差/遮断、エロス/タナトス(→ドストエフスキーへのオマージュ)。
 平行する眼差しと分断される眼差し。
 手のショット→恋人たちの握り合う手、絵の具で汚れたジャックの手、手紙を渡す手、階段の手すりに触れる手、カフェを出る二人の握り合う手。さまざまな手のクローズアップとフォーカス。
 音・廊下→壁をノックする音、マルトの部屋のドアに耳を当て内部の様子を窺う下宿人とかすかな息づかい。下宿人の部屋を鍵穴からのぞくマルト。ドアから廊下に漏れる部屋の光、室内の足音、鍵をかける音。
 身体に向ける眼→手、身体、声、赤というエロス。鏡に映すマルトの裸体、背中、臀部、乳房のショット。こちらを見るマルトの視線。
シネマトグラフ、リュミエールを超えることも、リュミエールに遅れることもないブレッソン。
 「マルト、マルト、マルト、マルト……」反復されるテープの声。セーヌ川で発せられる「マルト」というジャックの生の声。マルトという記号。ショーウインドウ、セーヌを運航する運搬船の標識MALT。
 テープレコーダーの声→内省のオフの声を嫌うブレッソン。
 フレームイン/アウト。
 都市の騒音、音楽。

1月31日(木)
覚書き(3) モデル論

 車が絶え間なく行き交い、背後には建設途中の近代的ビル群。私たちのイメージとは異なるパリの風景がスクリーンに映し出される。ここはパリとパリ郊外の境界であるサン・クルー橋。そこに右手の親指をたてヒッチハイクのポーズをとるジャック。周囲には同じ仕草のヒッチハイカーたち。ジャックは一台の車を止める。ドライバーは「どこまで?」と聞くが、ジャックは両腕をあげ肩をすくめ、何処でも、というポーズをとる。「乗って」とドライバー。すると突然、小鳥がさえずる静かな郊外。ジャックは垣根を飛び越え、草花の生い茂る斜面を2回でんぐり返りする。ジャケットを肩にかけ歌を口ずさみながら小径を歩くジャック。娘を連れた中年の夫婦がジャックを怪訝そうに見つめる。
 夜のパリ。ヒッチハイクから戻ったジャックが車から降りる。ジャケットを羽織るジャックの後ろ姿。夜の街がアウトフォーカスで捉えられ、レンズボケの暖かな色のヘッドライトがたゆたうように流れる夜のパリを背景に、クレジットとタイトル。そして第1夜の始まりであるポン=ヌフと書かれた灯の入った表示板のクローズアップ。
 簡潔なアメリカ的ショット、無表情な(世界を再現しようとしない)登場人物、クローズアップ、艶やかでエロスを秘めたような夜の色彩、視線。時間にして2・3分の、この物語にほとんど寄与することのない不経済な冒頭シーンなのだが、ここで示されたそれぞれのショットに、ブレッソンの作法に繋がるすべてがあるといえないだろうか。
 ブレッソンについてはさまざまな論考が現されているから、もうわたしなどが日記の類に書く必要もないように思えるのだが、「モデル」と「視線」について気づいたことを簡単に記しておきたい。
 ブレッソンにおいては、人物とは男優でも女優でもなくモデルであると、良く知られている。モデルはどのように生成するのか。初めに作家の中に生まれ、紙の上で死ぬ。それは生きた人物において甦り、フィルムの中で殺される。最後にスクリーンの上に投影されることにより生を取り戻す。2つの死と3つの誕生。このように誕生と死を繰り返すことによりモデルは生成される。とりわけ、撮影時に殺されるとは興味深い。モデルとはアクター(見せかけること)ではなく、〈在る〉ということ、という現前性である。ブレッソンがシネマではなく、シネマトグラフという用語を好むのは、このことによる。シネマトグラフとは映画を発見したリュミエール兄弟が創作した19世紀末の用語であり、人びとが「葉が動いている」と驚嘆した最初の魔術のことである。
 世界には二種類の映画がある。「演劇の諸手段(俳優、演出、等々)を用い、再現するためにカメラを使う映画と、シネマトグラフの諸手段を用い、創造するためにカメラを使う映画」(ロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書』松浦寿輝 訳)。ブレッソンはいうまでもなく後者なのだが、演出ではなく、監督という言葉がもっともふさわしいのがブレッソンであると思える。演出(ミ・ザン・センヌ)とはシーンに適合するように出演者をあてはめること、つまり再現することであり、監督(ディレクター)とは方向性、つまり在るという状態を指示することである。
 泣くという行為において、状況に応じ、さまざまな形態があるのだが、涙を流すというある種の記号化で、泣くということを示すことはできる。セーヌ川でマルト役のイザベル・ヴェンガルテンが両手で顔を覆って泣くショットがあるのだが、50回ほどショットを繰り返し、最後にはイザベルが本当に泣いてしまったという。これは泣くという心象を再現するためではなく、泣くという行為をオートマティックに進行させるために、50回というショットを必要としたのである。
 作家は、自らの映画作法を自作の映画内で言及することはないのだが、『白夜』では、珍しくモデル論を展開したと思えるシーンがあった。第2夜、ジャックのアパートに突然の訪問者が現れる。ドアを開けると、美術学校時代のクラスメートと告げる男がいる。彼は自分の作品を撮った1枚の写真を見せる。そこには小さな染みが写っており、彼は「染みは小さいほど世界の広がりを暗示する。染みとは見えず、存在しないすべてが見えてくる」と述べる。〈染み〉という、作家が想定し得ない不作為な現象、それが現代の作家性の表象であるということなのだろうか。彼は「名人芸の時代は終わりだ」とも言う。このシーンで奇妙なのは、訪問者が画家であることがあらかじめ分かっていたかのように、制作中の絵画を、部屋に招き入れる前にすべて裏返すことである。訪問者である画家には自作の絵画を見せないという、いわば訪問者の美術論を拒むジャックの絵画、という構図から、戦後のアートに対し、手づくりを重視するブレッソンの批判と捉えられることの多いシーンである。実はそればかりではなく、このシーンに、モデル論の重要性が潜んでいるといえないだろうか。訪問者は、「事物から存在をはぎ取り、限定したある空間に宙づりにする行為。分かるかい?」とも述べる。映画の文脈で読みとれば、「事物から存在をはぎ取り」「宙づりに」するのが演出であり、そうされるのが俳優(ここではとりあえず俳優と記す)である。俳優は演出家の中でたえず宙づりにされる存在であり、宙づりにされることにより世界を再現するのである。
 俳優とモデルとを明確に識別するブレッソンはこう述べる。「俳優とは内部から外部へと向かう運動であり、モデルとは、外部から内部へと向かう運動である」。そして「重要なのは彼らがわたしに見せるものではなく、彼らが隠しているもの、そして特に、自分のうちにあるとは自分自身思っていないものである」(『シネマトグラフ覚書』)と。モデル(=在る)とは、表面的な見せるということではなく、すでに在るものの表出であるいえる。第2夜に語られる数分のシーンには、ブレッソン的であるものが見事に潜んでいると思えるのだ。

2月1日(金)
覚書き(4) 性としての視線と性を回避する視線、そして分裂する視線

 白くうすいネグリジェ姿のマルト。間接照明の灯に、彼女の姿がいくぶんシルエットのように浮かび上がる。ネグリジェから身体がうっすらと透けて見え、衣服を纏うことで、より身体が肌という表面性、エロスを露にする。彼女の裸足の足元のクローズアップがあり、白いネグリジェの裾がゆるやかにまくし上げられ、マルトの素肌が露になる。ネグリジェをベッドに投げると、まだネグリジェに彼女のぬくもりが残っており、スクリーン一面にマルトの肌が匂ってくるようだ。彼女は鏡に裸体を映し見る。鏡には露になった背中、腰、臀部が映る。少し身体を捻り、手を動かし、彫像のようなポーズをとる。そして彼女の乳房の描く曲線と腰から臀部への流れるような曲線。それはビーナス像を想起させもするのだが、ビーナスのような肉感的なフォルムではなく、より現代的な身体である。そこには、この美しい肢体を呈示するためにイザベル・ヴェンガルテンの身体は在る(これぞモデル論だ)のではないのか、そう思えるほどの息を呑み込む美しさがある。さらに息を呑むのは、首を少し背後に捻り、マルトの頭よりやや上に置かれたカメラに視線を向けるときである。カメラとは私たち見る者のこと。だが、マルトの視線はカメラからやや外れており、見る者は彼女の視線と交差することはない。交差することはないから、わたしたちはただ見つめる存在に過ぎず、それ以上の接近はできない。まるで夢想家のジャックのような記述なのだが、それには理由がある。この挿話は、第2夜、ジャックにより語られたマルトの物語である。彼女が向ける眼差しが、カメラからやや外されているということは、語られる者であるジャックへの視線を回避する行為ともいえる。視線はどこに向けられているかといえば、フレームの外、つまり下宿人である恋人に向けられている。マルトにとり、ジャックは「あなたは優しい人よ」に過ぎず、裸体のマルトの視線は、ジャックへと向けられることを回避している。マルトの裸体とは表面にすぎないのだが、視線は内部からの放出する運動である。たとえ語りの中であるとしても、ジャックの前に裸体を露にしたマルトなのだが、しかし、視線を露出することを巧妙に拒んでいる。それは、視線とは突出する性の譬えであるからである。二人の視線は決して交差することはなく、一方が見つめたとしても、他方は正面を向く。二人が互いに顔を向けることもあるが、視線は微妙に外れ、交差することはない。現れない恋人にマルトの気持がジャックへと揺らぐ第4夜、セーヌの川辺でジャックは彼女を抱き寄せると、彼女は両手をジャックの首に回しキスをする。ジャックは彼女の白い衣服の上から胸を愛撫し、次第に手は臀部のほうにすすむ。だが、マルトはジャックの手を拒む。そのとき、キスまでよ、と言わんばかりに、マルトの視線はジャックの眼差しには向けられていない。たとえ恋人への想いが薄らいだとしても、性の突出としての視線は、ジャックを回避しているのである。
 『白夜』において、視線と性とは同値なのである、といえないだろうか。パリの街路で、ギターの演奏に立ち止まる最後のシーン。ジャックは月を見つけ夜空を見上げる。マルトにも見てごらんと促すが彼女は正面を向いたまま。空へと視線を向けるジャックと、正面を見つめるマルト。彼女の目の前には、下宿人であった恋人がいたのである。ジャックとマルト、二人の視線は交差しないだけではなく、ここで分裂するのである。視線の交差をエロス、その分裂をタナトスと読み替えれば、このシーンはタナトスの世界であるドストエフスキーへのブレッソンの倫理と言えるだろう。
 その夜、ジャックはテープレコーダーに録音する。「僕は驚き酔いしれる。おお、マルトよ、君の瞳を燃やし、顔に微笑みを与える力はなにか。君の愛よありがとう。君がくれた幸せに祝福あれ」と。燃えることのない瞳を夢想するジャックは立ち上がり、今録音したテープを再生しながら、床に置かれたキャンバスに向かう。カメラはジャックの背後を捉え、キャンパスに赤い色を塗る刷毛のこすれる音が、マルトについて語られたテープの再生音に重なる。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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