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【映画評】 ロベール・ブレッソン『白夜』 Vol.1…親密さと遠さの物語…

「美しい。この長さの白いネグリジェから、親密さと遠さ、その両方を感じさせます。」  

このショット(写真)を見て、わたしの眼差しの先の女性はこのように述べた。鏡の前の白いネグリジェと素足のマルト。マルトは自らの身体を鏡に写し見つめる。
 
そうなのだ。ロベール・ブレッソン『白夜』は、〈親密さと遠さ〉、そして〈眼差し〉に満ちた映画である。マルトは鏡に映る身体の向こうに、いったい何を見ようとしているのか。

ロベール・ブレッソン(1901〜1999)監督作品のデジタルリマスター修復版、4K版が立て続けに上映されている。すでに首都圏では終わっているかもしれないが、わたしの地元である京都はこれからの上映……大阪での上映の終了後だろうか。心待ちにしている人も多いだろう。わたしもそのひとりだ。

再上映されるデジタルリマスター修復版は
『バルタザールどこへゆく Au hasard Balthazart』(1966)
『少女ムシェット Mouchette』(1967)
『やさしい女 Une femme douce』(1969)

4K版は
『田舎司祭の日記 Journal d'un curé de campagne』(1950)

今回、『白夜』(1971)の上映がないのは残念だ。
『白夜』については、すでにnoteに掲載しているのだが、掲載文は長文なので、今回の再上映を機会に、テーマごとにVol.1〜Vol.3に再編集した。日記風鑑賞記である。
今回はVol.1

某月某日
ロベール・ブレッソン『白夜』(原題)Quatre Nuits d'un Rêveur「ある夢想家の四夜」のニュープリントを見る。


某月某日の夜

「映画とはフリッツ・ラングのことである」、と述べたのはゴダールだ。
だが、今夜は、「映画とはブレッソンのことである」と述べてみたい。

ブレッソンほどフィルムの美しさを体現させる作家はいない。ロベール・ブレッソン『白夜』のニュープリントはそう確信させる映画である。

『白夜』はいうまでもなくドストエフスキーの短編小説を原作とした作品である。私をジャックに、ナースチェンカをマルトに、舞台をペテルブルグからパリに置き換えた映画なのだが、ドストエフスキーを知る者は、ブレッソンの作法を前にして、ただ戸惑うばかりだろう。だが、原作とこの映画とを比較するのはさほど意味のあることではない。なぜなら、原作などまるで存在しなかったかのように、色の細やかな配置や、都市に響き渡る音を切り取るという手さばきの鮮やかさで、これはパリの作品であると、ブレッソンの揺るぎない断言が読みとれるからだ。

ブレッソンを語ろうとするとき、わたしはどこから語れば良いのか分からない。どのひとつの要素をとっても、かつてあったことはなく、これが世界ではじめての映画であるかのようだ。いったい誰がこのような映画を撮ろうなどと想像しただろうか。いや、「かつて」とか、「あった」とか、「このような」という言葉ですら、ブレッソンの映画の前では虚しく響く。だから今夜は、
「映画とはブレッソンのことである」
と述べるにとどめよう。


某月某日の夜 

やや風邪気味。熱はないが、少し喉が痛い。しばらく加湿器を掛けていなかったから喉を痛めたのだろう。加湿器は必需品。

今夜は近くの映画館へ行く予定だったが断念。残念としか言いようがない。
昨夜に続き、『白夜』について考えることにする。

覚書き(1) シノプシス
本作は四夜の物語である。
第一夜 セーヌ川に架かる橋ポン=ヌフ。画家のジャック(ギョーム・デ・フォレ)はセーヌの川面を見つめる美しい女性マルト(イザベル・ヴェンガルテン)と出会う。ジャックは、素敵な出会いを妄想してはそれをテープレコーダーに吹き込む孤独な青年。一方マルトは、「ぼくが結婚できる身分になり、まだぼくを愛していてくれたなら結婚しよう。1年後の同じ日の同じ時間に、同じ場所で会おう」と言葉を残し、彼女の元を去っていった元・下宿人である恋人を待っている。だが1年が経つが恋人は戻ってこない。思い詰めたマルトはセーヌに身を投げようとする。ジャックとマルトが出会ったのはそのときだ。その日から二人は毎夜、ポン=ヌフのアンリ4世像の下で、同じ時間に会うことを約束する。『白夜』はジャックとマルトの物語であり、パリという街の四夜の物語でもある。

第二夜 二人はそれぞれの物語を語り合う。
ジャックは絵を書いていること、素敵な女性との出会いを夢想し、清純にして無垢である愛の物語をテープレコーダーに吹き込んでいることを。
マルトは去っていった恋人のこと、恋人が戻ってくれば、彼の友人が知らせてくれることになっているが、いまだに連絡がないと。今日は彼が戻って3日目になるはずよ、と。
ジャックは、彼の友人に手紙を託せば、とマルトに提案し、手紙を書けば友人に届けると約束する。

第三夜 マルトはジャックに語る。「なぜ、あなたをとても好きなのか分かる? 私に恋してないからよ」「私が結婚しても兄妹よ。彼同様、愛するわ」と、マルトの心は揺らいでいるようなのだが、なにかを恐れている。そして「涙ぐむのはあなたの優しさのせい、でも愛するのは彼」、と戻ってこない恋人への思いを再び述べる。ジャックは明日には連絡があるとマルトを慰める。

第四夜 いつまでも現れない恋人を見限ったマルトはセーヌの階段を下り、川辺へと姿を消す。ジャックはマルト、マルトと必死に呼びかける。マルトを見つけ出したジャックは、彼女を優しく腕に包み込む。マルトは、「あの人を愛するのは今日まで、あなたはアパートを引き払って私のところに下宿してちょうだい」と告げる。二人はポン=ヌフを離れ、去っていった恋人の幻影を振り払うかのように手を握り合う。だがそれもつかの間、突如恋人が姿を現す。マルトはジャックの手を振りほどいてすばやく恋人の方に走り寄り抱き合う。そしてマルトは不意にジャックの元に駆け戻り、両手をジャックの首にまきつける。だが、ひと言も声をかけることなく再び恋人のほうに身を翻す。マルトと恋人は肩を寄せあいながら歩き出し、雑踏に姿を消す。ジャックはマルトたちの後ろ姿を見つめる。

ロベール・ブレッソン『白夜』-1

覚書き(2)断片集
映画を思い出しながら備忘録を作ってみる。
ショットの断片集。読み返すと、なんのことだかわたし自身も分からないかもしれない断片集。
冒頭の、従来のフランス映画の叙情的な叙述を排した簡潔なショット。脱・説話論的ショット。
ポン=ヌフという記号
交差する眼差しと遮断される眼差し→交差/遮断、エロス/タナトス(→ドストエフスキーへのオマージュ)。
平行する眼差しと分断される眼差し。
手のショット→恋人たちの握り合う手、絵の具で汚れたジャックの手、手紙を渡す手、階段の手すりに触れる手、カフェを出る二人の握り合う手。さまざまな手のクローズアップとフォーカス。
音・廊下→壁をノックする音、マルトの部屋のドアに耳を当て内部の様子を窺う下宿人とかすかな息づかい。下宿人の部屋を鍵穴からのぞくマルト。ドアから廊下に漏れる部屋の光、室内の足音、鍵をかける音。
身体に向ける眼→手、身体、声、赤というエロス。鏡に映すマルトの裸体、背中、臀部、乳房のショット。こちらを見るマルトの視線。
シネマトグラフ。リュミエールを超えることも、リュミエールに遅れることもないブレッソン。
「マルト、マルト、マルト、マルト……」反復されるテープの声。セーヌ川で発せられる「マルト」というジャックの生の声。マルトという記号。ショーウインドウ、セーヌ川を運航する運搬船の標識〈MALT〉。
テープレコーダーの声→内省のオフの声を嫌うブレッソン。
フレームイン/アウト。
都市の騒音、音楽。

《ロベール・ブレッソン『白夜』Vol.2…モデル論…》
に続きます。

(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)

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