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【映画評】 ホン・サンス監督作品…時間と距離の覚書(3)…『夜の浜辺でひとり』『クレアのカメラ』

本稿は
《時間と距離の覚書(1)…『次の朝は他人』『自由が丘で』》
《時間と距離の覚書(2)…『『正しい日|間違えた日』『それから』》
に続く稿として書かれています。

《時間と距離の覚書(1)…『次の朝は他人』『自由が丘で』》は

《時間と距離の覚書(2)『正しい日|間違えた日』『それから』》は

以下は本稿
《時間と距離の覚書(3)『夜の浜辺でひとり』『クレアのカメラ』》
となります。

『夜の浜辺でひとり』(2017年)

パート1(ハンブルク)の冒頭、ハンブルクの浜辺のカフェでのヨンヒ(キム・ミニ)とハンブルクに暮らす女友だちジョン(ソ・ヨンファ)との会話。ふたりはハンブルクの街を散歩し、それぞれの生活について話す。恋多きヨンヒは韓国の映画監督との不倫について、そしてジョンは男とは縁がない。

ジョンによれば、ハンブルクはドイツ人の一番生活したい街である。ヨンヒも、わたしもここに住もうかなと夢想する。

彼女たち二人とドイツ人カップルとの食事。カップルがどのような存在なのかは描かれない。四人のたわいのない世間話。

ふたたび浜辺。
ヨンヒとジョンの二人。ジョンはフレーム右へ移動し、それとともにカメラも右へパーン。そこにはドイツ人カップルがいる。次にカメラは左へパーンするが、そこにヨンヒはいない。カメラはさらに左へパーンすると立ち去ろうとする黒い衣装の男の後ろ姿。男の肩に抱えられたヨンヒらしき人物。

パート1はこのシーンで終了するのだが、黒衣の男はその後もたびたび登場する。
一度目は、ヨンヒとジョンが土手を歩いているシーン。黒衣の男は土手をジグザグに駆け上がり時間を尋ねる。だが、二人は「分からない」と答える(土手をジグザグに駆け上がるのは、イランのキアロスタミ監督作品の引用である)。
2度目は何だったろうか?
4度目は江陵(カンヌン)のアパルトマンのシーン。室内にヨンヒとその友だちがおり、黒衣の男はベランダで窓ガラスを拭いている。登場人物たちはまるで黒衣の男に気づいていないかのようだ。この男は何者なのか。プログラムの解説にはヨンヒの化身と書いてあるのだが、ヨンヒの時間のメタファーなのではないだろうかとわたしは思った。というのは、『それから』は時間の遅延と反復の作品だったが、『夜の浜辺でひとり』は時間の経過、持続、不在なのではと思うからだ。不穏なる時間。黒衣の男はそのメタファーではないだろうか。

パート2である江陵での会話でしばしば交わされる「皺が増えた」「まるで抜け殻のようになっている」「変わらず美しい」という発言。これは身体をめぐる会話なのだが、「増えた」「なっている」という時間の経過と、「変わらず」という時間の持続、そしてハンブルクの土手のシーンにおける時刻が「わからない」という時間の不在。これは持続でもあり不在でもある「愛=不倫」のことのように思える。

ホン・サンス『夜の浜辺でひとり』クレストインターナショナル-2
(写真=クレストインターナショナルから)

ヨンヒと友人たちの会話のいくつものシークエンスの後、不意に呈示される江陵の砂浜に横たわるヨンヒの後ろ姿。男が通りがかりヨンヒに声をかける。それはかつての不倫相手だった監督の、映画のロケハンであることがわかる。監督と再会し映画クルーと酒を酌み交わすヨンヒ。愛についての議論、愛の時間を巡るものでもある。

ふたたび砂浜に横たわるヨンヒの後ろ姿。男が通りがかり声をかける。反復されたシーンだが、ヨンヒは立ち上がり、ひとり砂浜を立ち去る(反復はいつだって差異を生成する。反復とはA→Aではなく、A→A’であることを確認しておこう)。この差異(A→A’)が生成するものとは、パート1のハンブルグの終盤のシーンのヨンヒの不在との重なりである。
ヨンヒの時間はどこを彷徨うのだろうか。それは、作品内を横断するわたしたち見る者の時間へと静かに侵入してくるように思えた。


『クレアのカメラ』(仏題)La Caméra de Claire(2017年)

ホン・サンス『クレアのカメラ』
(写真=クレストインターナショナルから)

映画祭が開催されているカンヌのとあるカフェ。映画会社で働くマニ(キム・ミニ)は、突然女社長ナム(チャン・ミヒ)から解雇を通告される。「あなたは不誠実で、不誠実な人とはつき合ってられない」と社長。マニは自分のどこが不誠実なのかと問い糺すのだが、「あなたは純粋だけど不誠実だ」と答えをはぐらかす。映画祭の真只中だというのに、会社を辞めて帰国してくれと言い渡される。
滞在していたアパートも追い出され、格安チケットなので帰国便を変えることもできずカンヌに残ることになるマニ。

海岸に立っていると、リセで音楽教師をしているフランス人女性クレア(イザベル・ユペール)と出会う。
クレアの趣味はカメラ。フジフィルムのチェキを持ち、出会った人の写真を撮っている。
クレアは、自分がシャッターを切った相手は別人になると不思議なことを言う。

なんだか面白そう。だが、これ以上は書けない。なぜか。上映中なのに、居眠りしてしまったのだ。
悲しいかな、わたしの脳細胞は眠りの領域に入り、映画の断片が連なるにすぎない。マニと韓国の映画監督ソ(チョン・ジニョン)が出会い恋に落ちるとか、ソ監督と女社長ナムとが恋人であるとか、ソ監督が若い女といい仲になったとか、その若い女がマニと推測できるかもしれないとか、終盤でマニがナムに呼び出され、ラストが映画会社のシーンで終わるとか、断片の連鎖ばかりで、線としてなにも繋がらない。

数日後に再見。
別人に「変わってしまう」と言った後に、クレアは「写真はあとで見直すから」と興味深い説明をするのだが、写真とは、プリントされ、事後に「見直す」という行為を予め孕んでいる。「見直す」ことで、被写体となった者と共に、かつてそこに在ったもの(たとえばカフェの女社長ナムとか)も写し込まれているということなのだろうか。クレアがフジフィルムチェキで撮ったのも、「すぐに」見直すことの出来るインスタントカメラだからなのではないだろうか。
「写されたもの」=ストゥディウムを見直すことで「見えてくるもの」=プンクトゥムという魔術が発生する。ロラン・バルトの概念を思い出しながら、この魔術が、解雇の撤回によるラストのシーン=(反復)を生み出す(=見えてくる)のだ、と考えることも可能である。

そしてもうひとつ面白かったのが交換。
マニは映画関係者なのに写真を撮らないで数字の歌をうたう。クレアは音楽教師なのに歌うことなく写真を撮る。クレアはClaire(クレール)。この名Claireclair(クレール「明かり」)のアナロジーであり、なるほど、名そのものが写真を想起させるのだと納得できる。これは、映画関係者マニと音楽教師クレアの交換の魔術と考えてみたくなった。


《番外》

*)ホン・サンス『それから』は結論を先延ばしすることで時間の遅延が反復を生成し、『夜の浜辺でひとり』は「なっている」「増えた」という時間の経過、そして「わからない」という時間の不在の戯れを生じさせ、『正しい日|間違えた日』は1日早く到着することで今日いう時間を明日へと遅延させる。
マルセル・プルーストの時間の〝深さ〟という定説に倣えば、ホン・サンスは時間の〝浅さ〟というプルーストとは真逆の世界にあるように思える。

*)ホン・サンスの最近の傾向にズーミングの多用がある。これは長回しとも関係することであり、ドイツのファスビンダー監督作品における、ある意味とてもダサいズーミーングが「メロドラマの通俗性」の表象であるに対し、ホン・サンス監督作品においては、「そこに在る」という俳優の身体の再現不可能性・一回性の表象としてのズーミングなのだろうなと思うのだが…はたしてどうだろうか。

(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)

ホン・サンス『夜の浜辺でひとり』トレーラー

ホン・サンス『クレアのカメラ』トレーラー


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