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K君との日記 #6

私、ほんとうはね

自分が大嫌いだった私が、
今は大好き、ってゆーか、大切にしたい、
もっと愛したいと思えるようになった。

(プロセスをいきなり省くけど、書ける時にまた書くね)

グレートセントラルサンの温泉に浸かりに行きたいときも、自分をゆっくり愛して癒したいときもある。

そんなとき、私は、自分に語りかける。
自分を抱きしめて、今までごめんね、
辛い現実を創り続けてごめんね、
って語りかけた。


ふと、何日か前から不思議な感覚がする。

家のおトイレに入ってる時、
家事をしている時、
何気ないふだんの日常の中で。
誰かが語りかけているような、言葉にならないような。

それは、私が語りかけたから、問いかけたから、
それに呼応して、答えてくれたみたいだった。

言葉じゃなくて、ふわあー、と広がるような。


たとえば僕が死んだら…?



私は自分に聞いてみた。

(ねえ、もし私が死んじゃったら悲しい…?
嫌だ?
悟りも開かないで、エゴに負けて自殺しちゃったらダメなやつだって思う?)

あははは。
おかしなこと聞くんだねー
君のことずっとずっと愛してるよー


(え、私がぐっちゃぐちゃの、そのう、スプラッタになっちゃっても…?[この際形状は関係ないが]
え、なんでなんで…?
失敗した、って、嫌いになっちゃわないの…?)


あははは、

君がからだを持つ前から、生まれる前から
ずっとずっと大好きなんだよー
そっちがふつうなんだよー

愛してる、愛してない、とか、
愛するとか、愛さない、とかじゃなくて、
ずーっとずーっと愛してるからさ

あはは。
でも、言葉にしようとしたらさ、
なんか、愛してる♡になっちゃうねー、
あはははは。


(そそ、そうなんかい⁉︎(呑気!))
でもでも、私、今までずーっとずーっと
自分のことが嫌いで、だから、辛い思いをさせてごめんね…)

そう言って私は私のことを抱きしめた。



エゴ、拍子抜け、まっしぐら


あれっ?
なんか、反応がないんですけど…


とゆうか、それはまるでお陽さまの光みたいに
雲が出ていても、常にあるような、
お不動様のようにいっさい動じなくて
元からそこにあって、常に私を愛している、
そんな気がした。


えッ…
そのう、もっと、こう、
感動の再会みたいな、やっと会えたもう1人の自分、
みたいのがさ、

ほらッ、
『おがあざぁーーん、ヴァーーーンッ‼︎』
みたいのは無いんかい⁉︎

シリアス好きな私のエゴが叫ぶ…



結論から言って、
どうやらそれは真我というらしい。


感動ドラマを期待していたまっこちゃんには
とんだ拍子抜けである。

でもよーくわかった。
いつでも、私が何をしていてもいなくても、
私を常に愛している私。

それは、愛するってゆう行為じゃなくて、
もともと私に降り注いでいるというか、
照らしている、湧き上がっているといってもいい、
私を愛しているわたし。
大気のように、常に私と共にあった愛…

何を愛ってゆうか、人によって違うし、
意識を向けている方向が違うと
同じ言葉を使っても違うものを指しているようになっちゃうんだけどね。

私がどんなにダメなやつ、と自分を嫌っていてもよく思っても悪く思っても、私を愛している私


何を達成してもしなくても、
誰からも愛されて無いように感じても
自分を傷つけても
誰かから傷つけられたように感じても
侮蔑の言葉を吐かれていようとも
世界でたった1人で孤独に思えても
私が生まれる前から、
そこにあった存在である、愛の私

このひと、なんも、気にしてねえーーーー‼︎
(人じゃないけど)

拍子抜けのような、
だけど、厳然と常にそこにあった
宇宙のような愛


相変わらず、私のこころは
ちょっと、こう、もうちょっとなんとか、
そのう…と呟きだす、が、
でも、それを知ったら、
すごすごと、
「あ、そっすか…」と、退散するしかない、
私のエゴ。

これが真我かあ…
うんうん、噂には聞いてましたけど、
本当に在りてあるものなんだね、
と、それを感じられて嬉しい私

色々な私を体験しながら、味わいながら、
私はまた、深い眠りについた。


ーつづくー

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