見出し画像

“勘違い”に育てられていた。

だらだらとネット検索していた。
Yahoo!の「知恵袋」で『〇〇(ここにはすごく著名な小説名が書かれていた)って面白いですか?』と尋ねている人がいた。
衝撃だった!
「みんなが間違いなく知っている大作家の代表作を『それって面白いんすか?』みたいにストレートに尋ねる人がいるんだ!」
確かに、自分では会ったこともない人なのに「いい人」と決めつけていり、世の中の評価に同調して価値のあるものだと思っていたり、「そこに主体性はあるんか?」と言われたら怪しいことってたくさんあるな、と自らを振り返った。
そして、ことある毎にあの衝撃文にならって「有名だからってほんとに美味しい店?」「それ、いい芸術か?」「あの人、芝居うまいか?」と考えるようになった。
世間に合わせて自分の価値観を構築していく必要はないな。そう思わせてくれたのが、あのわずか一行の問いかけ文だった。楽な気持ちになれることでもあったし、真偽を自分で見抜いていくことの大切さを意識するようにもなった。そんな変化を自分に起こしてくれたあの知恵袋の一文にはずっと感謝してきた。
 
ところが、つい先日、またいつものだらだら検索の過程で、あの一文に久しぶりに出くわした。何年ぶり? と、雑踏の中で旧友に会ったかのような変な懐かしさを覚えて、「お礼参りだな」などと思いながら開いてみて、前のとき以上に大衝撃を受けてしまったのだ!
私が受け取ったような意味で投稿者は尋ねていたわけではなかったのだ。
「〇〇」という作品をまだ読んだことがなくて、どうしようかな? 面白いのかな? みんなに聞いてみようかな? そんな感じで『〇〇って面白いですか?』と書いていたのだ。その証拠に、返答してくれた人に対して「いつか読んでみます」と言っていた。
オーマイ! なんという勘違い! 自分の早合点を今頃になって気づいてしまった。
自分に驚くとは、こういうことだ。
だけど、勘違いが良い方向に向かったわけで、「勝手に思い込んで勝手に変われるんだな、人は」などと、妙な感慨を覚えたりもした。
そんなことを考えていたら、前にもあったぞ、と思い出した。
まだ10代半ばくらいだった。
「掃除がしたいの! いつまでも寝てないで、起きて!」
週末の休みの日に母親に言われ続けた。
「そうなんだ。掃除が好きなんだ」と思って、親孝行の一つだと信じて、休みの日もなるべく早起きして、掃除がしやすいようにしてあげた記憶がある。
あれもよくよく考えると、決して掃除が好きだったわけではなく、あまりにも汚い部屋をどうせ息子は掃除しないから、代わりにやるしかないのだけれど、とっと掃除を終わらせたい、という意味での「早く掃除がしたい」だったのだ。そんなことすら、いい大人になってから「もしかして……」と思い至って、一人恥ずかしくなった。
勘違いしたくて勘違いしているわけではないので、勘違いさせてしまう日本語がむずかしいのだろう、と思うことにした。
ただ、確信していることが実のところは勘違い、ということはたくさんあるのかもしれない。でも、みんなそれで生きている。
むしろ、確信なんて勘違いの塊なのかもしれない。
それどころか、勘違いしなかったら生きづらいのかも。
ん? それも勘違い?
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?