ピグマリオン

ピグマリオンとガラテア、物語の類型

 そういえば原作は読んでないな、映画は観たけれど。――そんな本がいくつもある。私にとってバーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』、映画「マイ・フェア・レディ」の原作はそのひとつだ。A・ヘップバーンファンのつれが「原作と結末が違うんだよ」と教えてくれたので読んでみた。

 「序文 音声学の教授」、戯曲、「後日譚」の構成になっている。結論からいおう。とてもおもしろい。花売り娘イライザの語頭h音を出せなかったり、【ei】を【ai】と発音したりする癖がうまく訳されていて戯曲の生き生きとした雰囲気をきっちり支えている。古典だからとこちらから勝手にハードルを高くしてしまわずさっさと読んでおけばよかったと後悔するくらいおもしろかった。
 同時に、映画「マイ・フェア・レディ」との大きな違いに驚いた。
 話の筋という点に限っていえば、違いはおもに結末にある。が、結末が違うだけにしてはだいぶ話が変わるのだ。
 音声学の研究者であるヒギンズ教授がコックニー訛りの花売り娘イライザを訓練して公爵夫人として通用するかどうか、ピカリング大佐と賭けをするという話だ。そして厳しいトレーニングを経て上流階級の話し方とふるまいを身につけたイライザがパーティでレディとして十二分に通用することを示すクライマックスまでは、原作『ピグマリオン』と映画「マイ・フェア・レディ」は同じだ。
 しかし映画においてヒギンズ教授は最終的にイライザと結ばれ、戯曲『ピグマリオン』においてはヒギンズ教授とイライザは恋に落ちない。なぜこうも違うのだろうか。

 まず、原作のタイトルにもなっているギリシャ神話、ピグマリオンの伝説をおさらいしてみよう。

 キプロス島の若い王ピグマリオンは女に目もくれず彫刻に夢中。すばらしい大理石を手に入れたピグマリオンは全身全力で取り組みすばらしい美女の像をきざむことに成功する。美しい着物を着せ、化粧をしてやり、贈り物を買ってきて、どんなに思い焦がれても石像は石像にすぎない。やがてピグマリオンは報われない恋に絶望する。美と愛の女神アプロディテはそんなピグマリオンの苦しみを救ってやろうと願いを聞き届け、石像に命を与える。ピグマリオンは石像から生きた人間となった美女にガラテアと名づけ結婚し幸せに暮らした。
 ざっくりまとめるとこういうストーリーだ。

 バーナード・ショーは1916年の版に「序文 音声学の教授」「後日譚」を書き加えた。序文と後日譚を合わせたら戯曲本編より長いのではないかと思われるほどボリュームがある。特にみっちり人物の解説をしてある後日譚を読むとなぜヒギンズ教授とイライザが結ばれないのかが分かる。

 戯曲『ピグマリオン』において神話のキプロス王にあたるのはヒギンズ教授だ。神話のピグマリオンは、現実の女に目もくれないくせに美女の像をつくりあげて「この石像そっくりの乙女をお与えください」などと女神アプロディテにお祈りするような現実と虚構の境目が見えなくなっちゃってるタイプだが、バーナード・ショーは現実の女に幻滅しているところはそのままに、ヒギンズ教授を〈頑なな独身主義者〉にする。ヒギンズ教授の理想の女性は母親だ。

想像力豊かな少年が、金銭的余裕と、知性と、人間的魅力と、洗練された品格と、家を美しく飾ることができる一流の芸術的センスとを併せ持った母親に育てられると、大抵の女性には太刀打ちできない基準が設けられてしまうばかりか、彼の愛情や美的感覚や理想は、性的衝動には向かわなくなってしまう。
(「後日譚」より抜粋)

 母親のミセス・ヒギンズはアプロディテなのかもしれない。神話のピグマリオンが一心に石像ガラテアを大理石から彫りあげるさまに「きっとモデルはアプロディテだよね」と考えた向きがあったに違いない。私もそう思った。そして学校で古典に親しんだ諸姉諸兄はぱっと源氏物語の若紫のくだりなどを思い出されたりなんかしちゃうかもしれない。それは違う。でもぱっと頭の中で結びついちゃう人もいる(『ピグマリオン』を読めと勧めてくれたつれがそうだった)、というのは覚えておいてほしい。

 神話のキプロス王は石像ガラテアに恋をし結ばれた。が、戯曲『ピグマリオン』においてヒギンズ教授は理想どおりの作品をつくりあげたものの〈彼の愛情や美的感覚や理想は、性的衝動には向かわな〉い。あくまで石像は石像なのである。


 神話におけるガラテアはいうまでもなく花売り娘イライザ・ドゥーリトルだ。劇序盤、雨宿りのさなか発音から出身地区をこまかに当てるヒギンズ教授に

どうです、このドブ板に泥水を流したような英語の発音は、これじゃ一生貧民街から出ることはない。

 コックニー訛りをさんざんにこき下ろされたイライザは、

けど、わたしなら、三か月でこの子を大使館の園遊会でも公爵夫人として通用するようにして見せます。なんなら、ちゃんとした英語を喋る必要のある仕事に就けてやることもできる、奥様付きの女中とか、店の店員とか。

 この発言を真に受けヒギンズ宅を訪れる。猛特訓を経てイライザは持ち前の美貌と根性、耳のよさで見事にレディの言葉と所作を身につける。しかしそれは貧民街の花売り娘だったころには当たり前だった、たとえ〈これ以上切り詰めようのない必要最低限のものしかない〉としても働いて得た収入で自立していた生活を捨てることも意味した。貧民街からのエクソダスはイライザに賭けののちの暮らしをどう立てるかの決断を迫る。中産階級でイライザが生活をするためにはより高い階級の誰かの使用人になるか、誰かの妻となるほかない。エクソダスの先もまた眺めが異なるだけのエジプトだった。華やかなパーティを公爵夫人として乗りきり賭けに勝ったクライマックスのあと、イライザはヒギンズ教授に語る。

わたしがやっちきた――(自分で修正する)――やってきたことは、ドレスやタクシー(マフ注:貧民街にいたころのイライザにとって裕福な暮らしの象徴)のためではありません。いっしょにいるのが楽しかったからやったんです。それと、あなたを――あなたのことが――大切に思えてきたから。愛してほしいと言ってるわけではありません、身分の違いを忘れたわけでもありません。そうではなくて、もっとお友だちのようになりたかったんです。

 自立した暮らしを目指していたイライザの、ヒギンズ教授とピカリング大佐への親しみと対等でありたいという願いがいとけない言葉で語られているのが切ない。


 戯曲『ピグマリオン』と映画「マイ・フェア・レディ」の結末がなぜこうも違うのかを考えてみた。そもそも「五幕のロマンス」という副題をもつこの戯曲は1913年の初演後早い時期から、上演に際し結末を甘めのテイストに変更されている。作者バーナード・ショーは〈『ピグマリオン』が舞台でも映画でも、本国イギリスはもとより、ヨーロッパ中でも北アメリカでも大成功を収めたことは自慢しておきたい〉と誇る一方で、結末の変更には辟易していた。戯曲『ピグマリオン』のガラテアであるイライザについて

みずからの創造主であるピグマリオンを本当に好きになることは決してない。彼女にとって彼はあまりにも神のごとき存在であり、到底つき合えるものではないのである。
(「後日譚」より抜粋)

 とヒギンズ教授とのハッピーエンドの可能性を明確に否定している。

 ピグマリオンの伝説は当時人気のあったモチーフだった。この伝説は、理想のパートナーを追い求める要素や人形偏愛、ピグマリオンコンプレックスという魅力的なテーマを生み出してきた。バーナード・ショーはそこに新風を吹き込んだ。ピグマリオンが石像を石像として接し恋をしないというストーリーラインに変化しつつある階級社会への風刺や女性の自立を盛りこんだのだ。

 ここで思い出してほしい。ヒギンズ教授の、母親をモデルとする女性の理想像があまりにハイレベルなので現実の女性に恋愛や性的関心が向かないという本来は頑なな独身主義の原因を説明する部分に、源氏物語の光源氏と紫の上を想起する人もあったのでは、というくだりだ。
 理想の女性像、(創造主にとって)未完成の女性を理想へ近づけるために磨くこと、創造主と作品である女性との婚姻。本邦では源氏物語へと、イギリスをはじめとする欧米では強く創造主ピグマリオンと作品であるガラテアの婚姻へと強く導かれる。映画「マイ・フェア・レディ」は戯曲『ピグマリオン』のシンデレラストーリーの要素を強めた〈ハッピーエンド仕立て〉だ。この作品を安心して楽しめると感じる。その安心はどこからくるのかを考えたとき、物語の類型が思いのほか自分の心に深く根を張っていることにおののいた。

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