リクルートスーツの社会史ヘッダ

時間に洗い流される前に、あたりまえを解き明かす

 先日ニーチェの『この人を見よ』を読んで、まだその読後感の鮮度が落ちていないころだったからだと思う。間に読み終えた本はいくつかあったけれど、この『リクルートスーツの社会史』との間に橋が架かったように感じた。『この人を見よ』が圧の高い自伝であるのに対し、本書は落ち着いた筆致で社会史について書かれていて印象もジャンルも内容も違うが私の中ではリンクができた。
 いずれも、あたりまえをあたりまえのまま受け容れることに疑義を呈する書だ。

 ただし本書は声高に思想信条を主張するものではない。リクルートスーツが何なのか。どのような経緯でこの名前になったのか。社会が求める要件。〈無個性、従順の象徴とされ、否定され、ときに笑われ、嫌がられる〉画一的な衣装であることが意味すること。
 季節の風物詩、ある意味人生の季節の、ともいえるその衣装についての〈世間ではリクルートスーツと呼ぶが、いったいこの着衣は何だろう?〉という疑問を丁寧に解き明かしたのが本書だ。

春先になると、黒や紺のスーツに身を包んだ男女が街にあふれる。どこか借り物のようなそのスーツ姿は、微笑ましささえ感じさせる。そして、あなたは自分の就職活動のころを思い起こすかもしれない。
(序章「リクルートスーツとは何か」より)

 冒頭で強く想起されたイメージは、読み進めて終章「リクルートスーツとは何だったか」に至り

リクルートスーツは大きくは変わらないからこそ、周囲の人々の変わりやすさを映し出す鏡となるのである。
(終章内「メディアが語るリクルートスーツ」より)

 単なるあたりまえの、あたりまえのままにしておいてよい光景ではなくなっている。

リクルートスーツの画一性や没個性は、結局、メディアの言説を循環的に参照しあって安心し、議論や決断を回避する態度に由来するのではないか。
(終章内「根拠の外部性」より)

 ことリクルートスーツやメディアに限った話ではない。社会の規範について言及するとき、思いを馳せるとき、あるいは事象の表面のみを見て脊髄反射的に決めつけようとするとき、自分のあたりまえを、安心の根拠をいちど突き放して眺めなおさなければならない。

 ほんとうにどうでもいい個人的なことなんであるが、服飾史をはじめとする歴史資料に以前、たいへんお世話になった。趣味で一本、時代小説を書いたときのことだ。時代を1800年代初頭に設定したので歴史資料が豊富でアクセスが容易だったにもかかわらず、リアリティある描写に結びつけられず苦労した。当時使われていた道具、ヘアスタイルの資料、地図、住宅図、浮世絵から商店のコマーシャル集、当時の儀式を残す祭礼の記録など、幕末の江戸は資料豊富だ。眺めているだけで楽しい。物語の舞台は、自宅から電車で一時間もかからず行ける場所だ。にもかかわらず、得た情報を登場人物の生活として再構築すると解像度の低い像しかむすばない。二百年で江戸――東京は異世界のように変わっている。たかだか三万字強の短編小説に、ごりごりと空き時間をすり潰すように費やしても費やしても(技術的な問題が大きいのだが)生き生きとした文章にはならなかった。想像で書いて書けなくはない。私の場合は、服飾史をはじめとする歴史資料がなければ小説自体成り立たなかった。

 これだけお世話になっていて何なのだが、『リクルートスーツの社会史』レベルで多角的に資料に光が当たっていれば、とも感じる。ただ、あたりまえの「あたりまえ」は案外失われやすい。資料当時はあたりまえだったことは急速にあたりまえでなくなっていくものだ。
 だからいつ変わってしまうか定かでないあたりまえに「あたりまえだから」「常識なのだから」と寄りかかってしまうことはとてもとても、危なっかしい。

 時間は水の流れと似ている。初めは結びついていた意味や意義が洗い流され、形骸となった習慣だけが残ることがしばしばある。『リクルートスーツの社会史』はその衣装を定義し解体し組み立て直すことで時間にも抗っている。リクルートスーツからいずれ消えるであろう血と肉と汗すら惜しみ、記録や文献だけでなく小説も風俗資料として参照されていてこの解析に至る苦労がうかがえた。とても読み応えがある。リクルートスーツに思い出がある人にも、そうでない人にも勧めたい。

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