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多言語、多文化の社会で見えること

昨晩久しぶりに、家族と大ケンカした。
正確には、”衝突した程度で繋がりが途切れない者同士、
存分に感情のぶつけ合いをした”といった方が、いいかもしれない。
今はお互い、かなりスカッとした。清々しい気分だ。

こんな家庭内でガス抜きのようなことをする度に、感じる。
終始日本語でのみケンカすることが、年々難しくなってきたな、と。
それは、当然のことだ。
家族にとっては、一日の大半使用している現地語を使う方が、心情を正確に表し、表現豊かに、自分の思いを伝えることができるからだ。
序盤は日本語のみだが、中盤に入ると現地語が混じる。感情がピークに達する頃は、家族は現地語ばかりとなる。(私は日本語で返すのみ)

私の家族は、多言語話者だ。
胎教(!?)の頃から、家庭内では徹底して、日本語を主言語にしてきた。
母親が現地語が大得意でないことが幸いして、
家族は日本語で「話す」「聞く」ことに、全く不便がない。

皆が幼少の頃、日本文化継承、日本語を伝えることに、熱意を傾けた。
でも、ある時から、私は一方的に力むことを、きっぱりやめた。
人は皆、意思があるということに、改めて痛感することがあったからだ。

低学年の頃は、家族は親・教員に真っ直ぐ付き合い、日本語での学習を継続していた。発達段階上、この時期、大人に素直なのは当然だったかも。
それを私は知らなかったから、家族は日本語での学習が好きなのだ、これまでの親子での努力の賜物なのだと、錯覚していた。
ほとんどの家族は、日本語がかなり優勢だったため、義務教育が始まり現地語で学習するのに、苦労した時期が続いた。
そんな状況でも、自尊心を保てるよう、私は家族に、こう声をかけ続けた。
あなたはこんなにたくさん、皆が知らない言葉も知っているのよ。
書けるし、読める、すごい。誇りをもったらいいよ。
日本語も知っていたら、大人になってから活躍の場が増えるよ。


ところが中学年を過ぎ、日本語での学習に難しさを訴えるようになる。
親子二人三脚での学習は、バトルとなる。
日本育ちの子供達と同じカリキュラムを、家族が身に付けるのは容易でないということくらい重々わかっているが、度々、感情的になることが生じた。
同時期、現地語での学習能力が急激に伸びたのは幸いだったが、家族にとって日本語での学習を、これまでのペースで続けるということは、困難そのものとなってしまった。

学習のモチベーションをどう保つか。通り一辺倒だが、例の声がけをする。
そこで、家族からの反論があった。
あのね、学校には現地語以外の言葉喋れる、使える子、たっくさんいるよ。複数言語が喋れる努力は認めるよ、でもそれが、人間の価値が高いってことになるわけ?ひどいことばっかりやる、とんでもない子だっているよ。
たくさん言葉が喋れるからって、そんなのその人の特徴でしかないよ。
現地語しか喋れないのは、恥じゃない。そんなの、人間の価値に関係ない。
恥だと自分がちっちゃくなることが、自分の価値を下げてるんだ

日本語ができたら、活躍の場が広がるっていうけど、活躍の場を広げるのは日本語での学習だけじゃない。
本当に自分の活躍を広げるのは、自分で考えて最善であると判断して選んだことに、懸命に取り組むことなんじゃない?

今日はもう、日本語での勉強しない!と、部屋を出て行ってしまった
家族を、私は茫然と見送った。
母国への帰属意識からだったのか。それとも、誰頼ることなく、
アウェイでずっと、育児してきたからだろうか。
幼い家族が、日本にルーツがあることに愛着を持つことを好ましく思い、
自分の手の中にいることに安心を覚えて過ごしてきた。
現地校学習とアクティビティを両立させながら、自分の母国に生まれ育った子供と同等レベルの学習知識、言語能力を持つ家族に惚れ惚れし、舞い上がって見えていなかったものが、自分にあったことを知る。

何日か、打ちひしがれた。
立ち止まって、考える時期がきたことを、歓迎しないといけない。
これまでの歩みに、疑問を感じなくていい。最善を尽くしたんだ。
今の立ち位置はどうか、今後何が出来るかに目を向けて、考えよう。

家族のためといいつつ、本当にそうだったかな?
実は自分が、家族の存在を抱え込んで、そこに自分の価値を見出そうとしてるのでは。依存してたんじゃない?
ここでガイコクジンだけど、そこそこ頑張ってしっかり育児してますって、思いたかっただけなんじゃないの?

あらためて、家族からの言葉を考える。
これこそ、自分が家族として、惚れ惚れしていいことじゃないか。
大人になるまでまだ何年もあるけど、家族は自己肯定感を持ち、他者を認め、人生の歩み方を考えることができるのだから。
多言語、多文化社会に暮らすからこそ、家族は「見える」ものがあるのでははないだろうか。また、日本語での学習を通じ、「わかる」こともあったのではないのだろうか。

「確かに、人間の価値は、何人からもつけられるものじゃない。
何かの条件をつけて、測られるものでもない。その通り。
あなたが、自分の人生にとても必要だと思うなら、日本語での学習を続けられるよう、環境を整えるようにする。
日本語での学習支援には、かなり自信あるから、いつでも声かけて。
最大限、力になる。
多言語・多文化社会に暮らすからこそ、自分のルーツに関連あることをするのは、プラスになったり、よりどころになることもあるかもしれないね。」

家族に、こう伝えた。

その後、家族は皆、”自らの選択で”日本語での学習を続けている。
私は、”手”は離したが、目と心を離したことはない。
家族各々が、自ら習得したいレベルの日本語での学習を、求められたら
支援するのみである。

義務教育が進むにつれ、日本語での学習能力をもっと活用して、
現地校で「日本語クラスを取るのどう?」と、私はすすめてみた。
「日本にルーツがある自分が、日本語ができるのは、ごく当たり前のことだと思う。日本語、日本だけにとらわれず、興味がある言語、国の事を知りたい。」と、家族はそれぞれ、違う言語・国際文化を学ぶことを選んでいる。

さらに違う言語を習得するのは、やはり大変なようでヒーヒーいっている。
家族がそのように選択する人間であることに、惚れ惚れしつつ、
私は傍で、応援している。

(今日のうれしかったこと)
たくさん球根を植えた。
あれ、予報になかった雨が降ってきた。よかった~。
芽がいつ出るか、楽しみだ。
(今日のありがとう)
靴があるから、どこまで歩いても怪我をせず、楽に歩ける。
磨いているとき、しみじみ有難いもんだと思った。



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