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恥をかいてからが命運の分かれ目〜哲学とカタルシス

カタルシス。

プラトンの考えた意味でのカタルシスとは、対話を通じて相手を浄める行為、つまり哲学こそがカタルシスのいとなみだと考えました。

「だれかが論駁を行うことによって、論駁を受けるものを恥じ入らせたうえで、学びの妨げとなるいろいろな思い込みを取り除き、清らかにして、ただ本当に知っていることがらだけを知っていると考え、それ以上のことはそう思わないように」する行為が哲学だと考えたのです。
(『ソピステス』藤沢冷夫訳)。

これは本当に重要かつ耳の痛い話ですね。この意味で「哲学」できているのかと問われると、うーむ…と立ち止まってしまいます。かなり辛い。。

かなり辛いといえば、「論駁を受けるものを恥じ入らせたうえで」という部分。これは辛い!しかしここからの態度が本当にその人の命運を分けることになるのだと思います。恥をかいたとして怒り散らしたり、二度と戻って来られなくなるほど過度に落ち込んでしまうようでは、成長することもできなければ、求めているものが手に入ることもないのだと思います。それがどんなものであろうと。

そして、曖昧にしか理解していないことが多数あるような状態よりも、本当に知っているといえることが少数ある状態の方が、よほど自分にとって有益だと思います。ただ、その「知っている」に辿り着くまでの道のりの長く険しいこと!努力を長く続けられるように工夫することも、とても大切になってきますね。僕は革ジャンを着用すればテンションが上がって疲労が軽減されるので何とかなるかもしれません。ありがとう、Schott、そしてLewis Leathers!!!




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