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ばあば先生

おばあちゃんは、私の師匠だ。なんでもできる。暮らしのエキスパートである。私の家族は皆、彼女のことを「ばあば先生」と呼ぶ。


ばあば先生は、私の母の母だ。私が幼稚園に通っていた頃、母は仕事に行っていたため、私たちを迎えに行ったあと、ばあば先生に、私と、一つ年下の妹を預けることがよくあった。住宅、畑だけに囲まれた閑静な地域で、私と妹は自分たちだけの遊びを楽しんだ。家の前の道で自転車の練習もしたし、よく遊んだ空き地に背の高い雑草が生えたときは、妹に「全部刈るから」と突拍子もないことを言い出し、日が暮れるまで黙々と草ばかり触っていたこともあった。


先生の旦那さん、つまり私の祖父は私が1歳のときに、突然、帰らぬ人となり、先生はそれから今までずっと一人暮らしである。うさぎもいたのだが、私が幼稚園年長の年に亡くなってしまった。一人でなんでもやってきた。私にとって、頼もしい存在で、憧れでもある。


憧れポイントその1は、家庭菜園だ。菜園というと、畑で野菜などを育てるイメージだが、先生の家に畑はなく、栽培はすべてプランターである。プランターで菜園なんて、大袈裟な。と思うかもしれないが、これが、本当に菜園なのである。四角い家の周り、4辺のうち2辺がプランターで埋め尽くされており、季節の花々や、野菜が生い茂っている。彼女によって手の尽くされた植物たちは、いつも生き生きとしている。特に、プチトマトは私が幼い頃から育てていて、毎年7月頃には、つやつやと輝く、赤い宝石のような実が枝に連なる。その美しさは近所で話題になるほどで、ある朝、先生がトマトを見にいくと、昨晩に「明日収穫しよう」と思っていたトマトが消えていた、ということもあった。おそらく早朝に何者かによって収穫され、持ち帰られたのだろう。宝石泥棒ならぬ、トマト泥棒である。そんな彼女のトマト栽培の熱は加速し、ずっと苗から育てていたが、最近はポットで種から苗を育てている。恐るべきプチトマト研究家である。しかし、研究熱とはうらはら、大量のトマトが収穫されるため、「トマトばっかりは飽きる」と、毎年私たちにたくさんのトマトをくれる。それがいつも嬉しくって、ちょっとおかしくて、笑ってしまう。


憧れポイントその2は、お裁縫が得意なところ。レースや、毛糸の編み物をよくしていた。コロナ禍になってマスクが不足していたときは、私たちのために布マスクを作ってくれた。ミシンではなく全て手縫いで、とても丁寧な仕上がりだった。編み物に至っては、きっと、一つの網目が崩れれば作品の全体に影響が及ぶであろう。一つ一つの網目を大切に、コツコツと作業を進めることは、様々な分野で重要となることだと思う。


最後に、憧れポイント3は、料理がとても上手なところだ。彼女の料理はどれも美味しい。また、それを、冷蔵庫にある物で作ってしまうのが、すごい。名前の無い料理を振る舞ってくれるときもある。彼女はよく、「特別おいしいって訳では無いけど、まずくは無いよ」と笑って、私に料理を食べさせてくれる。でも、その料理の味はいつも深みがあって、食材のうまみを感じられるものばかりである。また、彼女は口触りの悪いものや、歯に挟まったりするものは嫌いなため、食材の切り方などにもこだわっていて、下ごしらえなども丁寧だ。それに、トマト栽培と同じく、研究心も忘れない。料理番組をよく見ており、「〜さんがこの間やってたから、やってみた」と言って料理をくれるときもある。ときには、「あの人が言ってたからやってみたけど、私が今までやってた方法がいいわ」なんてこともある。

おせち料理も毎年作ってくれる。どれも美味しくって、私の父も大好き。我が家のお正月には欠かせない。特に黒豆はしわが無くってピカピカで、黒く光っている。長年の研究が生んだ賜物である。勉強をし続ける心って素敵だと、テレビの前のテーブルに置かれた、レシピのメモを見て思う。


そんなばあば先生に、コロナウイルスが流行りだした頃から、会いに行くことが増えた。今までは、母とどこかへ出かけた帰りなどに会うことも多かったが、最近は私も家にいることが多く、一人で会いに行く。世界がコロナ禍にいる中、彼女はせっせとマスクを作っていた。その数は、私たち家族が洗い替えしながら、毎日使えるくらいだった。ただ、マスクがどんどん完成しても、彼女はマスクをして外出する気にならなかった。買い物もできるだけセーブし、私と会話するときも距離をとったものになった。

「寝れない日もあって、勉強したら頭が働くし、読書も目が冴える。だから最近は、マスクばっかり作っとうわ。」

最近は、スマホ等の設定を私が手伝いに行くこともある。また、食べることの好きな彼女だが、歯が悪くなってきて、柔らかいものや小さく切ったものをよく食べると言う。この前、「もやしは食べにくい」と笑った。

幼かった頃の私にとって、大人は守ってくれる人だった。なんでもできる人だった。なんでも知っている人だった。なんでも教えてくれた。ずっと当たり前に感じていた存在が、少しずつ、形を変えている。その足音に気づかず、私は毎日を淡々と過ごしていた。
最近は、歯がどんどん少なくなっていくんだ、と少し寂しそうに笑う祖母の表情が、脳裏にじんわりと思い出される。

しかし、今まで過ごした時間も、今を一緒に過ごす時間も大切なものに変わりはない。そして、私はずっと彼女の孫なのだ、と改めて思う。幼かったあの頃、夕焼けの空き地で遊んでいた私たちを守っていたのは、間違いなく彼女である。


今年は、おせち料理教えてもらおうかな。