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「まわれ、右」と大阪人の必要

鎌倉は御成のスターバックスコーヒーのもっとも美しい季節が訪れた。「フクチャン」で知られる漫画家・横山隆一の邸宅跡につくられたこの店舗には、プールを備えた美しい庭園がある。その辺りにはチューリップが、そして藤棚や八重桜の姿があり、水面にピンクの花びらが揺れるのは、入れ立てのカフェオレの表面をみているみたい。ゆるやかな遠心力が、とてもやさしく心地よいのだ。

そんな風景が目の前にあると、おもわず顔を上げて、外をみることになるでしょう?それがよくて、このカフェによく訪れている。macbook airをもってスタバにいる人。ここではよく見かけるそれらの人のワン・オブ・ゼム だ。

今朝はヒューストン大学ソーシャルワーク大学院の研究者、ブレネー・ブラウンの動画をみていた。勇気・ヴァルネラビリティ(心の弱さ、などと言われる)・恥などをテーマに研究する彼女の魅力のひとつがスピーチだ。

「傷つく心の力」というタイトル(訳)で知られるTEDのスピーチはネットで評判となり、字幕もついているので、どこかで目にした人も多いかもしれない。

このスピーチの冒頭で、彼女はこんなエピソードを紹介している。スピーチの依頼者から、あなたの肩書きをどう紹介すればよいか、と相談されたというのだ。「研究者」と書くと、退屈な話をする人と思われるて誰もこないかもしれない。でもあなたは話が魅力なのよね、と。

ある言葉が置かれることが、それが指し示そうとしていることを時に退屈で関心の持てないものにさせてしまう。これは、とてもリアルな指摘だ。そして、ブレネーはこの点において抜群の切れ味の良さを発揮する。

例えば「恥」というテーマについて。「恥について話しましょう」というと、そんなこと関わりたくない、興味がないといった反応が返ってくる。でも「完璧主義というものについて、関心がない?」というと、「ああ、それなら、少なからず思い当たることがあるな」と言う風になる(完璧主義は、自分の弱さを見せることへの恐れ・恥の感覚と関係しているとブレネーは解く)。

たとえば、最近ダイバーシティ推進の文脈で「ビロンギング(belonging:帰属意識)」という言葉が注目されている。「自分の居場所がここにある」という、安心感を得られている状態などと表現される。ブレネーはビロンギングとFitting in(周囲にあわせて調和すること)の違いをこう言っている。

“Fitting in is about assessing a situation and becoming who you need to be to be accepted. Belonging, on the other hand, doesn’t require us to change who we are; it requires us to be who we are.
(フィッティングインとは、状況をみながら、その場に受け入れられる自分になろうとすることだ。一方、真のビロンギングとは、決して、あなたに変わることを強要しない。あなたがありのあまのあなたであることを求めるものだ)

この、言葉の強さよ。ひとつのテーマに向き合い続けながら、時にやんちゃに、ときに(つねに)ガチに、世界と出会いつづけている彼女は、私のロールモデルだ(これに気づいたら、気持ちがとっても軽やかになった)。

言葉は、事象と認知を結びつけるものだ。だからこそ「言葉」そのものが「こう理解されるだろう」と思い込む代わりに、「言葉」を介して人がこころに浮かべるであろう風景に思いを馳せることが必要とされるのだろう。「言葉」が「出会いを紡ぐ使者」としての役割を果たせた時、「ああ、うれしい」とか「それそれ」という気持ちになる。

この文章のタイトル。思いつきでつけちゃったのが「まわれ右、と大阪人」というものだった(これ、あとで変えるかも。ブレネーのことを書いたのに、このタイトルからじゃ、それはとても想像がつかないから)。この文章との連想の中にあるのは「言葉のおもしろさ」ということで、思い出したエピソードがあるから。

それは大昔、新卒で働いていた外資系のIT系の会社で。時代の変化に応じて自分たちも変わらねば、ということで打ち出された言葉をめぐるものだ。

Right Angle Turn、と掲げられたスローガン。これを、翻訳会社が「まわれ右」と訳してきた。

おい!

このツッコミをいれるのに、大阪人にならざるを得なかったよ・・・。考えてみてよ。「みなさん、私たちは回れ右をします」ってCEOメッセージ、どうしてもおかしいだろう(少なくとも新スタートを切る前向きなメッセージにはみえないだろう)。

それはもう何十年も昔のことだが、それにしたって、翻訳専門の企業がこれって、おいおい、と思う。そして現代においても、それもニューヨークとかサンフランシスコのような国際的な都市においても、日本語がおもしろく訳されている看板はいくらでもみつけることができるのだから。ああ、まあ、そんなものかな。と。なんでしょね。この隙間は、あんどなのか、やれやれなのか。

アーモンドミルクのラテがすっかり冷めてしまった。どころか、とっくの昔に飲み干してしまった。薄曇りの空だ。午後は雨が降るといっていた。洗濯物をとりこむために、お家に帰ろう。

行動範囲が自転車でおさまる、この街が好きだと、やっぱり思う。