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限りある命だからこそ輝いている〜映画『アーク』感想

*ネタバレあるかもしれません。未見の方はご注意下さい。

石川慶監督の「Arc アーク」を配信サービスで観た。


石川慶監督作品は「愚行録」「蜜蜂と遠雷」「ある男」と、いずれも原作のある映像作品だが、それぞれに独自の解釈をしていて、映像的にも独特のムードがあり「間違いない」映画監督だと個人的には考えている。

今作も中国SFブームの先駆けのケンリュウの短編が原作だということで、期待してみたのだけど、最初に浮かんできた感想はこれだ。

「なんと実験的な映画だ」

だけど、全編観終わってみると、仕掛けは凝っているけれでも、そこで伝えているものは普遍的なことなんだということだった。
それは、原作のケンリュウ氏の諸作品がSFという仕掛けの中で人間の普遍的なものをいつも描いているというというのと同じだろう。

しかし、全てが原作通りかというと、大枠の部分以外では、かなり映画化にあたって改変しており、一部はそれが成功しているが、反対に描き込みが少なくて原作を読んでいないと理解しにくい部分があったのではないかと思う。

さて、そうした内容に入る前に「映像的な演出」について触れておきたい。
といってもそんな細かいことではない。
それは、中盤から後半、ラストシーンまではモノクロームになるということだ。
この後半部分のモノクロームがとても美しい。
そして、このモノクロームで語られている物語が映画のテーマである「不老不死」になってからのパートなので大きな比重を占めているのだろう。

そのためか、前半(全体だと1/3もない?)のリナが若い頃の話、エタニティ社の工房に辿り着き、ボディワークスの仕事をはじめやがて責任者になっていくところの話が少し分かりにくい。

・リナがまだ10代の若い時に娘を産んで捨てたこと(両親に預けた)
・それから浮浪者同然のその日暮らしに身を費やしていたであろうこと
・どうしてエマがリナをエタニティ社に誘ったのか
・エマは何故リナにエタニティ社を任せたのか?(自身は退いたのか)

これらのことが、映画だけを観た限りでは理解しにくかった。
これらは、そもそもリナがどういう育ち方をしてきたのか、どういう考えを持った人間なのか、そうした人物像への理解が進まないまま後半に向かっていくので、腹落ちしにくい部分が多い。
一度しか観ていないのでどこかのセリフで語られたり、描かれていたのかもしれないが、少なくとも僕には「???」というところが多く感じた。

そして、この前半部分はボディワークスおよびプラスティネーションという遺体に特別な処置を施すことで腐敗を防ぎ永遠にその遺体の生前の姿を維持することが出来る、そういう話が描かれるのだが、これは少し見る人によっては嫌悪感を覚えるかもしれない。
プラスティネーションはすなわち人間のはく製を作っているにほかならないので、倫理的なそして心理的な拒絶感が沸き起こるかもしれない。
遺体に処置はいっても血はほとんど出てこないし、グロシーンもない。あくまでもクールに描かれているのだが、遺体を弔う方法として果たしてこれは許される行為なのか?
原作ではこの部分についてもしっかり記述されているのだけど、映画上ではあまりそういった部分については触れられていなかったので、観ていてずっとモヤモヤと引っ掛かっていた。

こまで前半がフルカラーで描かれる。

そして、リナが30才になり、エマの弟の天音と結婚し、天音が研究開発した不老化処置を2人で施して、人類最初に永遠の身体を手に入れてから60年弱が経過、リナが89歳からのシーンで突然映像がモノクロームになる。

つまりこの映画では不老不死の世界がモノクロームとして描かれる。

すでに不老化処置は一般的になっている世界。
当初は不老化処置は非常に高価だったが、さらに数十年経ち研究開発が進むことで、望めば誰もが処置を受けられるようになっていた。
ただし抽選制で、かつ経済的な理由や医学的な理由(遺伝子異常で効果がないことがわかっている)がない場合という条件つきだが。

経済的な理由としては、劇中ローン200年とか言ってた。
(途中、ドキュメンタリーのように一般の人々のインタビューシーンなどもインサートされているのが演出的に面白かった)

モノクロームの物語の舞台は「天音の島」と名付けられた場所。
「天音の島」では処置を受けなかった、受けられらかった人が、安らかに最後の時を迎えられるための、天音とリナが建築した誰でもが無料で入居出来る施設だ。

しかし、この時には既に天音は遺伝子異常により不老化処置が効かずに亡くなってしまっている。
そして、リナは娘のハル(天音が残していた精子から人工授精して出来た)を授かっており、2人暮らしをしている。

そんな静かな島での暮らしの中で、ある日一組の夫婦がやって来る。
妻のフミは末期ガンに侵されていて施設に入居するためだが、夫のリヒトは自分の意思で処置を受けておらず、また一緒に施設に入居することもせず、自分で小屋を借りて漁をして暮らしている。
このリヒト役の小林薫とフミ役の風吹ジュンがとてもいい。

「修理すれば動くものって、思いの外たくさんある」

リナがリヒトの小屋を訪ねると、施設で暮らしていたであろうトキさんが残していったカメラをリヒトが修理している。
しかし現像はできないので写真にはならない。

「写真なんて撮ってどうするんですか?
 何も変化なんてしないのに」

「たとえあんたが変わらなくても世界は変わる
 今日のあんたが昨日のあんたとは違う、何かが」

不老化処置を受けて永遠の身体を手に入れているリナは「変わらないこと」を当たり前のこととして受けていれている。
しかし、リヒトは不老化処置を拒絶した人間で「変わること」を肯定する世界に生きている。

ラジオ(テレビ?)では、全世界の出生率が過去最低の0.2人にまで落ち込んでいると報道している。
一方で自殺者は増えていて歯止めが効かず、自殺を合法化しようという話も出ている世界。

変化のない不老不死の世界は果たして素晴らしい世界なのか?

リナ90歳の誕生日に、施設でサプライズパーティが催される。
その頃には、ボディワークスの工房は閉鎖されることになっている。
プラスティネーションの需要がなくなっているからだ。
そもそも不老不死が当たり前になった世界だからそうなのだろう。

娘のハルが飼ってた亀が死に、埋葬するシーンがある。

そして、リヒトが実はリナが若い頃に手放した息子だったとわかる。
原作未読だとこれには驚き。
そもそも映画だけだと、どうして解ったのか正直不明だったが。

夜、船で海へ出たリナとリヒト。
やっと年の入れ替わった親子として、胸に秘めていたことを伝え、お互いをやっとわかりあえるとても良いシーン。
花火が打ち上がる

「そろそろあんたも自分の人生を生きる時だ、母さん」

「生まれ変わったら、また私のこと見つけてね」

その2週間後にフミさんが亡くなり、
半年後、リヒトも1人で海へ出て戻って来なかった。

そして、リナ135歳
ここで、モノクロームからフルカラーに映像が戻る。

家で写真を現像しているリナ(に見えたが、実はリナの孫)
砂浜に年老いたリナが座っている。倍賞千恵子さん。
そして、リナの娘のハル、リナの孫と一緒だ。

どうやらリナは不老不死を諦めたらしいが、とても穏やかで幸せそうにみえる。
まだ若い身体を持っている頃に、バスルームでおへそのところから何か液体を注入しているシーンがあったから、不老不死を維持するための何かしらの処置は継続で必要だったんだろう。

孫がリナに言う。
「やっぱり、ずっと生きていられるのに
 死ぬなんて間違っているよ」

「私はね、
 やりたかった あらゆることを 達成することもなく
 見たかった あらゆることを 見ることもなく
 知るべき あらゆることを 学ぶこともなく
 でも、
 一人の人間として 十分すぎる経験をしてきて死ぬのよ
 そうやって初めて 私の人生には
 始まりと 終わりが出来る」

原作ではこの「始まりと終わりがある」ことこそが人生だと書かれている。
「ARC=円弧」という単語が「始まりと終わりがある」ことを意味するとどれだけの人に伝わるだろうか。
映画鑑賞後に原作の短編を読み直したことで、タイトルの『Arc アーク』の意味がやっと腑に落ちたが、このセリフだけでは少し分かりにくいのではなかったか。

人は限りある命だからこそ、夢や希望を持ち、生きる意味を探して一生を終える。だからこそ輝いていて素晴らしいものになる。
だから不老不死の世界はモノクロームで描かれており、
リナが不老不死を捨てた時に、また世界は色を付けたのだろう。

最後にこの難しい役を演じたリナ役の芳根京子さんもとても素晴らしく美しかった。

流石、石川慶監督作品に外れなし。
『Arc アーク』は賛否両論の評価のようですが、大変素晴らしい映画でした。

<了>


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