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すべての付属品を外した本体としての自分の姿は? という話です。

人生のいろいろなターニングポイントにさしかかると、それまで愛着をもっていたモノやコトをどうしても手放さなきゃいけなくなって、どうしよう、と考え込むときがある。

その手放すかどうかというのは、非常に大きな決断として迫ってくることがあるから、その場合は呻吟しながら決断を下すことになるわけだけど。。。

でも、決断する前に時間切れになって先に進まなければならなくなったりすると、結局、何も決断できないまま状況的に手放すことになってしまって。。。

そうすると、もはやそのモノやコトは自分の手を離れるんだけど、ココロのなかには愛着や執着だけが残り続けてしまうことがある。

それが、けっこういつまでも、ずーっと、ずーっと残り続けるんだよね。。。

いったい、モノやコトへの愛着や執着をまったく持たないで生きる、なんていうことが可能なのか、どうか。。。

これを考えることは、断捨離につながるテーマだろうし、終活( 「人生の終わりのための活動」の略。人間が自らの死を意識して、人生の最期を迎えるための様々な準備や、そこに向けた人生の総括をすること)なんか、それそのものだと思う。仏教はそこが核心になっているよね。

自分が思うに、聖書も似たことを言っているんじゃないかと感じるんだ。今日の聖書の言葉なんか、まさにそれだと思う。

今日の聖書の言葉。

世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。 なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。
ヨハネの手紙一 2:15-16 新共同訳

モノやコトへの愛着や執着をアタッチメントって言うけれど、語感としては本体に装着する付属品みたいな感じだろうか。

付属品は本体の機能を拡張するものだから、付属品をたくさんつければ、それだけ機能も広がることになる。

でも、付属品単体では本体の代わりにはならないよね。本体はあくまで本体だから。パソコンにUSBカメラを付ければ便利だけれど、USBカメラはパソコンの代わりにならないでしょう?

本体が人生そのものだとすると、付属品がモノやコトなのだろうね。モノやコトが多ければ人生の厚みも幅も広がるような気がする。

でもじゃあ、モノやコトが人生の代わりになるかというと、それはそうはならないわけであって。。。

世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。
ヨハネの手紙一 2:17 新共同訳

愛着し執着していたモノやコトを泣きながら手放すことになっても、それでも人生は前へ進んで行かなきゃいけない。いったい人生はどこまで進むかというと、聖書によればそれは「永遠」だからね。すごいスパンだ。

人生の進行が永遠の領域に踏み込むときのラインが死であり墓であるわけだけど、墓に入るにはアタッチメントを全部外さないといけないわけで。。。

そりゃ、まあ、故人の愛用の聖書を棺に一緒に収める、というようなことを習俗としてはやるわけだけど、でも、それはかたちの上でのことであって、ほんとうに墓の向こうへ何か持って行けるかと言ったら、何一つ持って行けないんだよね。自分の霊魂のほかは。。。

その、すべてのアタッチメント、すべての付属品、すべての愛着や執着、すべてのモノやコト、身体性すらはぎとられた、裸の状態の霊魂になったときの自分のありさまをココロの目で想像してみる。。。

そのとき、自分は、寒い・せつない・欲しい、と思うのだろうか。

それとも、自分は、あたたかい・満足だ・何もいらない・だって「神」を得ているから、と思うのだろうか。

初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。
ヨハネの手紙一 2:24-25 新共同訳

願わくは、後者の自分でありたいと思うんだけれど。。。それにしても、これ、を手放す決断をするのはつらいよなー。。。どうしよう。。。どうしたものか。。。呻吟しながら今日も逡巡する。。。

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