見出し画像

うめきたくなる時には、考えられないことだけど、そもそも、なぜ、うめくのか、ってこと。

なんだかよくわからないけど、こころが苦しくって、かなしくって、つらい、ってことが、あるよね。

それが、あんまり深刻で、生活に支障が出るようなときは、カウンセリングとかしてもらったほうがいいんだろうけど。。。

カウンセラーは、こっちの話しを、ひたすら聞いてくれる。

っていうか、こっちが話せるように、引き出してくれる。

こっちが話せないときは、当然のことながら、沈黙になってしまうわけなんだけど。。。

気まずい沈黙の時間。。。

でも、カウンセラーは、その沈黙のなかで、じーっと待つ。街ち続ける。。。5分でも、10分でも、20分でも。。。1時間でも!

すると、こっちのなかから、言葉が、ぽつり、ぽつり、生まれ出て来る瞬間がやって来る。。。

そんなふうにして喋りはじめられたら、ほんと、不思議なものだよね。曖昧模糊として正体不明だった苦しさ、悲しさ、つらさが、だんだん言語化されて行く。

そうやって言語化されると、あー、自分は、このことに悩んでいたんだ!ということが、わかる。

わかると、同時に、自分はどうしたらいいのか、自分は何がしたいのか、ってことも、自分でわかってしまう。

「わかる」って、「分かる」から来ているんだろうかね?

だとしたら、それって、まさに言語の分節化の機能そのものだよなあ、と思う。

でも、そうやって「わかる」にたどりつくまでが、簡単ではない場合も、ある。

言語化したくても、言語化できない場合。。。

そんなときは、わからないまま、苦しみ続けなけりゃならない。

でも、その苦しみを誰かに訴えたくて、だから、何かを自分の内から発せずにはいられなくって。。。

それがね。。。「うめき」となって、出て来るんじゃないかなー、と思う。

同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
ローマの信徒への手紙 8:26 新共同訳

うめきは、言語化が不可能な苦しみ・不安・恐れ・悲しみ・つらさ、を誰かに受け止めてもらいたくて表出するものだよね。

これが「叫び」なら。。。

「叫び」の場合、必ずそれを聞いて、受け止めて、誰か助けに来てくれるだろう、という暗黙の前提のもとに「叫ぶ」のであって。。。

だから、叫びには、なんらかの積極的な要素があると思う。

でも「うめき」となると。。。

自分の「うめき」を聞いてくれる誰かが、いるのかどうか、わからない。だから、助けに来てくれるかどうかも、わからない。。。

その、「わからなさ」のうちに発するものが、「うめき」じゃないかと思う。

今日の聖書は、われわれの、そういう「うめき」を聖霊が受け止めて、驚くべきことに、聖霊がいっしょに、うめいてくれる、と言ってる。

聖霊は、神の霊であり、イエスの霊だ。

その聖霊が、いっしょに、うめいてくれる、ってことは。。。

父なる神・子なる神・聖霊なる神が、みーんな自分といっしょに、うめいてくれる、ってことになる。

全能の神が、うめく、って、そんなこと、あるんだろうかね?

だって、神はすべてを知っているわけだから。

全知全能の神は、当然、問題の所在は何かを正確に認識していて、しかも、言語化の機能(ロゴスである神)によって、曖昧模糊な存在を切り分けて、取扱い可能な実体へと簡単に転換できるはず、なんだから。

だから、神がうめく必要なんか、あるのか、ってこと。

にもかかわらず、神は、われわれといっしょに、うめいてくれる、という。。。

これは、まあ、謎であり、神秘であるわけだけど。。。

神は、神の力で、物事を簡単に切り分けることができるはずなのに、あえて、聖霊となって、われわれのなかに降りて来て、われわれの苦しみ・不安・恐れ・悲しみ・つらさを、ぜーんぶ受け止めて、いっしょに、うめいてくれる、という。。。

われわれの「わからなさ」の苦しみを、いっしょに「わからない」ものとして、うめいてくれる、という。。。

それは、まるで、神が神でなくなったかのようにして、受け止める行為だ。

なんでそこまでするんだろう。。。

わからないけれど、でも、そうまでしても、神は、われわれと「ひとつ」になりたい、ってことなのかもしれない。

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マタイによる福音書 27:46 新共同訳

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?