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サイエンス・フィクションを模倣した、セオロジカル・フィクションの続き。。。

これまで2回、サイエンス・フィクションならぬセオロジカル・フィクション(神学的創作)を書いたんだけど。。。

1回目が、これ。

で、2回目。。。

そして、今日の聖書の言葉を見てみたら、キーワードが「主の家に帰る」だった。。。

なので、これは「主の家に帰る」について書かなきゃなー、と思い。。。

今日の聖書の言葉。

命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。
詩編 23:6 新共同訳

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自分が「新しいエルサレム」の第 451階層に住み始めてからの様子を前回、前々回と紹介した。その後、続きを書かなければ、と何度も思いながら、やっぱり、ずーっとヒマがなくって、時間がたってしまった。旧世界の暦法なら 15,000年ぐらい経過してしまっているだろうか。。。

なぜ、そんなにヒマがないか、と言うと、基本的には、おしゃべりが楽しくて仕方がない、ということがある。ここ、新しいエルサレムは、一辺が 2,200キロメートルの巨大な立方体であり、高さ 1キロの空間を持つ階層が1,000以上ある。そこに 1,000億人以上の「神の子どもたち」が住んでいるのだけれど、軽いおしゃべりをするつもりで、ひとりひとりと立ち話をしただけで、あっというまに 1万年。じっくり座って話し込んだ場合には数百億年たってしまうのだ。だって 1,000億人いるわけだからねー。。。

「神の子どもたち」というふうに言ったのは、文字通りそう、ということもあるけれど、そのカッコのなかには、人間だけではない、神の子どもたちの栄光にあずかったすべての被造物が含め入れられている *。自分の場合、子どもの頃に出会ったヤモリ・金魚・スズメ・猫・犬などが、栄光に輝く人間に変貌して、しょっちゅう自分の家に遊びに来てくれる。彼らはもちろん人間の言語を話すので、おしゃべりに何の不自由もない。

あるとき「神の子どもたち」のひとりである猫とお茶をしたとき、こう尋ねてみた。「そう言えば、地上にいたとき『猫語翻訳アプリ』っていうのが流行ったことがあって、だれかがそれを猫に使ってみたら『ようやくこの体にも慣れたな』って翻訳されて、Twitterで騒ぎになったことがあったんだけど。あのアプリって正確だったのかな?」 そう聞いたとたん、いままで楽しそうにおしゃべりしていた猫が、スンッと黙り込んでしまった。どうも、聞いてはいけないことを聞いてしまったようだ。。。

地上で生活していた頃は、ありとあらゆる言語によって人間も被造物も分断されて、苦労していたことを思い出す。自分は同時通訳とか逐次通訳とかウィスパーリングの仕事もやっていたんだけど、どんなに頑張っても伝わらないニュアンスがあるよなー、と常々感じていた。やがてAIのディープラーニングによる翻訳アプリが出回るようになると、通訳の仕事は激減したんだけど、さすがのAIでも、やっぱり微妙なニュアンスは訳せていなかった。でも、まあ、例の悪夢の「太陽風事件」が起きて、世界の電力が全停止し、AIアプリが使えなくなったので、ふたたび自分は通訳に駆り出されたんだけれど。。。寄る年波には勝てず、たぶんそれが原因で死期を早めたんじゃないかなあ、と今にして思う。15,000年後に気づくって遅すぎるか。。。

新しいエルサレムは、そういう意味では完全にストレスフリーな世界だ。ここでは通訳も翻訳もいらないし、微妙なニュアンスが伝わらないという問題もない。初めて自分が「パーリーゲート・カフェ」(真珠門茶館)でのイベントに足を運んだとき、すっごい緊張していたのを覚えている。それは、地上にいたときからずっと楽しみにしていたアクィナスとカルヴァンとバルトの神学鼎談だったんだけれど、話について行けるか心配だったのだ。だって、アクィナスはラテン語、カルヴァンはフランス語、バルトはドイツ語をしゃべるわけだから。イベント告知サイト「ニュー・エルサレム・ポータル」には、通訳あります、とは書いてなかったし。。。ところが、会がはじまってみると、不思議なことに三人の話はスラスラと自分に入ってきた。まるで自分の母語を聞いている気分だった。でも、三人は天国の共通語をしゃべっていたわけではなかった。それぞれが、それぞれの言語でしゃべっているのに、どういうわけか自分はそれを完全に理解することができたのだ。あとで天使に聞いてみたところ、こういう答えが返って来た。

「もともと人間には、すべての言語がデフォルトで入っているんですよ。でも、ほら、日曜学校で習ったでしょう? あのバベルの塔の一件の時、神様は人間にリミッターを付けることにしたんです。それで、ひとりひとつしかしゃべれなくなった。もちろん、頑張って 24か国語ぐらいしゃべれるようになるひともいたけど、それは、必死に頑張らないと無理ね。でも、ここでは言語能力に対するリミッターが外れているので、人類のすべての言語を、自分の母語として使うことができるんです。だって、それはもともとそなわっていたんだから、母語と言っても間違いではないでしょう?」

天使の言葉を聞いて。。。その天使は日本語でしゃべった。。。すごくびっくりしたけれど、しかし、すぐ疑問が起きた。だって、どんな言語も自由自在に使えるようになった実感がないんだもの。それで、じゃあ、イディッシュ語をしゃべってみよう、とか、ケチュア語をしゃべってみよう、とか、ピダハン語をしゃべってみよう、とか、やれるかというと、できない。そもそも、それらの言語の文法も構文も語彙も、知らないんだから。。。

そこでわかったのは、ひとに会いに行かなければ発動しない、ということだった。というのは「母語」だから。学問とか趣味とか研究のための書斎の言語ではなく、ひと・と・ひとが対面してコミュニケーションするための母語だから。だから、相手に実際に会っておしゃべりをはじめるまでは、イディッシュ語もケチュア語もピダハン語も、発動しないのだ。

だからなのだろう。ここ、新しいエルサレムの住人たちは、しょっちゅう自分の家を空けて、1,000億人以上の「神のこどもたち」のあいだをいそがしく行き来している。お互いがお互いを訪ねて、おしゃべりするためだ。自分的に楽しかったのは、古代ケルト教会の聖人コロンバンとゲール語でおしゃべりしたこと。でも、途中からコロンバンが「日本語で話そうよ!」となったので、後半の会話は日本語になってしまったけど。あと、イグナチウス・ロヨラとバスク語で話したのも楽しかった。ジョークでネアンデルタール人の言語の残りと言われることもある孤立した謎のバスク語だけれど、ロヨラとしゃべりはじめると、それは自分の母語になっていた。

なので、ここ、新しいエルサレムでは、自分が地上で感じていたような限度とか限界とか違和感とか疎外感とか孤立感とかいうものが、まったく感じられない。まさに「天国」なんだけど。。。それはやはり、すべてのひとの、すべての言語が、すべてのひとの母語である、という状態によるところが大きいと思う。あと、おしゃべりするのに時間の制約がない、というのも大きい。3日でも 1週間でも 1年でも 100年でも、じっくり座って話し込むことができるんだから。。。まあ、100年もしゃべり続けたら、地上で夫婦が過ごす 50年を軽く超えるから、そりゃ、こころが通じ合うようになるわけだよね。。。

でも、母語が同じなら、なんでも上手く行くか、と言うと。。。自分が地上にいたとき、同じ日本語を母語とするあいだでコミュニケーション不全に陥ることを何度か経験した。新しいエルサレムでは、その逆で、コミュニケーションは普通にすべてうまく行く。その最大の要因は、自分が一回死んで復活したことにより、罪から解放されていること。それと、みんなのうちに聖霊によって住んでいるイエスが「愛の共通語」になってくれていること。これが大きいよね。地上にいたとき、よく、ああ、このひととは波長が合うな、という経験をしたことがあったけど、新しいエルサレムでは、会うひと会うひと、すべてと波長がぴったり合うのだ。その波動(?)が、どこから来るかというと、やっぱり、ひとりひとりに内住するイエスから来ているんだと思う。

そういう意味で、ここ、新しいエルサレムで、自分は常にアットホームな気分で暮らしている。一辺 2,200キロメートルの巨大な立方体の 1,000以上ある階層の、どの場所で、だれと会って、どんな話をしていても、まったく違和感がない。すっごい落ち着くのだ。なので、軽いおしゃべりを始めたつもりが、すぐ 1年ぐらいになってしまう。ほんとうに時間が立つのを忘れてしまうのだ。

主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう

註)
*  Cf. ローマ 8:21

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