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ショートショート集『誰でもない自分はそこにいる』

タイトル:誰でもない自分はそこにいる
ペンネーム:ラストカツ丼(2023年3月改名)


・ショートショート話集
・投稿:2022/04/09
・更新:2022/08/11 まえがき追加
・作品:2021/07/31~2021/12/24


まえがき

それでは、どうぞ。お楽しみください。

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プロローグ

珈琲の苦味は、人生に似ている。
恋愛や仕事、人生は苦いことが多い。
大人になり、珈琲の美味しさが徐々にわかってくるところも、
人生と似ているかもしれない。

いつもより少しだけ早起きをした朝。
儀式のように手慣れた動作で、ドリッパーに熱湯を回すようにそそぐ。
淹れたての珈琲をブラックで飲む。
酸味の少ないブレンド豆は、砂糖やミルクを入れない方が、自分の好みに合う。

眼を閉じる。
視覚情報をシャットアウトすると、珈琲の香りが際立つ。
その香りが、今までの人生を思い出させる。

コーヒー(さらに縮小)



あれが初恋だったと大人になって気づいた

男は過去の恋愛を引きずるものだ。
世間でよく言われていることを、ふと考えていた。
そして、珈琲を飲みながら、自分で自分に苦笑いをしていた。

 ◇  ◇  ◇

幼稚園の年少のときには、既に好きな人がいた。
幼稚園の担任の先生だ。
だが、年長にあがると、新しい担任の先生が好きに変わっていた。実に軽薄だ。
そういえば、近所のかわいい子にラブレターも書いた。その子の家のポストに投げこんだ。
なかなか怖いもの知らずな園児だったんだ。
だけど不思議なもので、いま想い返しても、相手の顔が浮かんでこない。かわいいから好きになったのに、結構いい加減なものだ。
その頃のテレビといえば、女性の裸なんて当たり前。昼間から濡れ場も放送されてた。
小さな頃から、昭和のテレビを観て育った自分。
そんな幼少期を過ごした自分も、初めて女性というものを意識したのは、意外と遅かった。
それは中学一年の夏休みのこと。担任の先生ととても仲が良くて、自宅へ遊びに行くことになった。
自宅を訪ねると、先生の奥さんがホットパンツをはいていた。そして、自分は奥さんのフトモモに釘付けになってしまった。そう、それが初めて受けた衝撃だった。初心だったんだな。
初心な中学生は、友達から「初体験すませた」と武勇伝を聞いてもピンとこない。とある裏ビデオを観ながら友達が「疑似じゃん!」と怒ってたけど、意味がわからなかった。
もちろん彼女なんてできるわけもなかったし、そもそも欲しいとも思っていなかった。彼女という概念がなかった。

当時、学校で流行っていたことがある。
好きな人から校章を貰う。そして貰った校章を自分の制服の裏に隠すようにつける。ということだ。
好きな人から貰う。その意味がわからない中学生だった自分。
そんな自分の校章を欲しいと言ってくれた女子がいた。
自分は深く考えることもなく、その子に渡した。

その子はとても優等生だった。
成績は常に上位で、しかも愛嬌があり、いつも笑顔だった。
かわいかった。
まだ中学生のあどけなさはあったが、将来は美人になることを予感させる目鼻立ちのクッキリした顔つきだった。
大人びていて、そして憂いを帯びていた。

あとから聞いたことだが、自分の校章を、いつもうれしそうに制服の裏につけてくれていたらしい。

そんな彼女のうれしそうな様子に気づくことなく、自分は呑気にすごしていた。
彼女を好きになることも意識することもなかった。
ただ彼女のことを考えると、ちょっとむずがゆかった事だけを覚えている。

そのまま何も起きることなく卒業し、お互い別々の高校へ進学した。
ある朝、駅でその子に呼び止められた。振り返って、誰だかすぐにわかった。でも、何を話せばいいのかはわからなかった。
そこで気づいたことがある。

自分を見つめるその子の眼が輝いていたんだ。

高校が逆方向だったので、そのまま会話もなく別れた。
そして、それ以降、偶然会うことはなかった。

 ◇  ◇  ◇

あれから、何十年も経っている。
いまでも、はっきり覚えている。
彼女の眼が頭の中に思い浮かぶ。

いまならわかる。
あれが恋する女性の眼だということが。

そして、今でも彼女の眼を覚えている自分こそ、彼女のことを好きだったのだと。

あれが初恋だったと大人になって気づいた・・・

コーヒー(さらに縮小)



情事の憂鬱

吉祥寺ーーーおしゃれで憧れの街と誰もが知っている。
ふと思う。都会に住み慣れた自分も吉祥寺へ行ったことがない。
吉祥寺のこと詳しく知らないなーーー

 ◇  ◇  ◇

エッチをなんと表現していいかわからない。

下品な言い方はしたくない。

そこに愛がなければ虚しくなるだけだし、単なる性欲のぶつかりあいだとは思えない。

思いつくかぎり、言葉の響きを想像してみる。
「エッチ」「行為」「情事」「彼女とひとつになる」「合体」「お互い求めあう」・・・
「愛のぶつかり稽古」とおかしな呼び方をする奴もいた。
いっそ「おS○X」と丁寧に言ってみてはどうだろうか。

こんなことで悩んでいるなんて、失笑してしまうが、「情事」が一番しっくりくる。

 ◇  ◇  ◇

情事ーーー
どんな言い方をしても、過去の恋愛、数数の夜を思い出すと、気分は憂鬱になってしまう。
そんな気分のときは、いつもの珈琲の味もわからなくなる。

 ◇  ◇  ◇

自分は「情事」というと「吉祥寺」を思い浮かべてしまう。

理由はとてもくだらないが、友人が吉祥寺の事を「ジョウジ」と呼ぶから。

吉祥寺を思い浮かべる自分の頭の中に、ふと「疑問」が放りこまれる。
そして、頭の中から色っぽさや情緒は消えてしまう。

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 吉祥寺は23区内なのか?
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コーヒー(さらに縮小)



みんなロマンチストだよ

若い頃、付き合いはじめたら、プラチナの指輪を彼女にプレゼントする。というのが自分の中でのお約束だった。
彼女に自分が贈ったものを身に着けていてほしかったからだ。

当時は今ほどシルバーが流行っておらず、プラチナということで彼女もすごく喜んでくれた。

しかし、そうは言ってもお金はなかった。
指輪もブランドものではなく、小さな石のついたシンプルな指輪で、けっして高価なものではなかった。

普段は、海沿いの公園に行ってただ海を眺めたり、お互いのアパートで過ごしたり、そんな貧乏デートばかりだった。

貧乏デートばかりでも、交際は順調で、そろそろクリスマスが近づいてきた。
彼女がプレゼントに欲しがったものは「クマのぬいぐるみ」か「ピアス」だった。
いや、どちらかというと、ピアスの一択。
彼女は付き合いはじめに貰った指輪にあわせ、プラチナのピアスをつけたかったんだ。

でも、デート代も節約していた二人。
プラチナのピアスなんて買えないのはわかりきっていて、はっきりと無理だよ。と伝えてあった。

そして、クリスマス当日、自分は彼女にクマのぬいぐるみをプレゼントしたんだ。
彼女は喜んでくれた。
でも、実は、ただのクマじゃない、「リュックを背負ったクマのぬいぐるみ」だった。

彼女がぬいぐるみを抱きしめると、リュックが固いというような違和感を感じているようだった。
「何か入っている?」と聞いてくる。
自分は無言で、ただ微笑みかえすだけ。
彼女がリュックを開ける。
すると、可愛らしい小箱が出てくる。
相変わらず微笑んでいるだけの自分の前で、彼女は箱の中身を確認する。

その中には、彼女が欲しがったプラチナのピアスが入っている。
そう、ちょっとしたサプライズを仕掛けたんだ。

ピアスを見つけた彼女の顔は、いまだに忘れられない。

 ◇  ◇  ◇

今でも、
飲み会などで恋バナが盛り上がり「今までで一番、恋人にしたロマンチックな事は?」と聞かれたら、迷わずこの話をする。
鉄板エピソード、女性からのウケもいい。

涙を流しながら喜んでくれた彼女を思い出し、ロマンチックだった自分に、自分で酔ってるだけかもしれない・・・

コーヒー(さらに縮小)



勘違いの憂鬱

昔の記憶を思い出そうとしていた。

[自分が初めて女子を意識したのは、いつのことだろうか?]

それは甘酸っぱくもなく、ただただ苦いだけの話。
人間は嫌なことは、忘れる生き物だというけれど、
珈琲を飲むたびに思い出す。
後悔したことは忘れられないーーー

 ◇  ◇  ◇

中学生のときに通っていた学習塾に、ちょっと目立つ美人の子がいた。
ある日、突然、その子からクッキーを貰った。

クッキーを貰ったのが、自分だけなのか、それとも皆なのかはわからなかった。
自分は「お返しをしなければ」という使命感に襲われた。

クッキーのお返しに選んだのはコーヒーだった。
ラッピングもしてもらって。

塾で、その子にお返しを渡したときは、塾全体が変な空気になった。
「クッキーのお返し」と言わなかったために、ただ、プレゼントを渡してる。って感じになってしまった。

その子は美人だったけど、好きでもなんでもなかった。
ただ、自分はお返しをしたかっただけなんだけど。

変な空気を元に戻す話術もなかった。
ただただ、そのままになってしまった。

それ以上のオチもなにもない話、
でも、なぜか、忘れられずに覚えている。

あの変な空気は一生忘れられない気がする

コーヒー(さらに縮小)



同じ場所、同じキス、同じ言葉・・・

「あれ持ってる?」
彼女からのその質問への答えは用意してあったし、ちゃんと、あれも用意してあった。
彼女は、自分からの返答に、ちょっとだけ驚いた素振りをした。
そして、少しだけ照れ笑いをしたようだったが、嫌がるそぶりもなく、自分を受けいれてくれた。

 ◇  ◇  ◇

二人の出会いはーーー
自分が社外研修の講師として短期出張でその街にやってきていた。彼女はその研修先の会社に勤めていたのだった。

二人が惹かれあうのに、さほど時間はかからなかった。
お互いのコンプレックスが、そのままお互いのタイプだったのだ。
自分は、子供の頃、ずっとちびだった。成長期に一気に身長が伸びて、反動で低身長な女性に魅力を感じてしまうようになってしまった。
彼女は、いつまでも身長が伸びないことを悩んでいた。逆に背の高い男性に惹かれるそうだ。

ふとした会話で、お互いがお互い同士、好みのタイプであることを知った。

研修も最終日に近づいてきたころ、二人で食事でも行こう。という話になった。
連絡先を交換しようとしたタイミングで、彼女が急な業務で上司から呼び出されてしまった。
結局、食事には行けなかったし、連絡先も交換できなかった。
そのまま、残り僅かな日々も過ぎていき、最終日を迎えた。

あとで聞いた話によると、上司に邪魔されたことと、連絡先の交換すらできない日が続いたことで、逆に彼女の中で自分への気持ちが盛り上がったらしい。
あのとき、ちょっとムカついた上司は、実は恋のキューピッドだそうだ。

最終日は研修先の会社が、打ち上げを開いてくれた。
彼女とは、たまたま背中合わせの席になった。
そして、背中越しに渡してくれた連絡先。
そのまま、こっそりと二人きりの話を続けた。

気持ちを確かめ合う必要もなかったし、最終日なので時間をかける余裕もなかった。

打ち上げがはねたら、二人きりになれた。
自分の宿泊してるホテルのベッドに座り、長い時間、キスをしていた。
彼女は「あれ持ってる?」と聞いてきた。
自分は、持っていなかった。
出張、仕事で来てるんだから、そんな準備などしていなかった。

 ◇  ◇  ◇

出張から戻り数日が経ちーーー
彼女を忘れられなかった自分は、彼女の元を訪ねることにした。

あのときと同じホテルで、あのときと同じようにキスをした。

そして、彼女は、あのときと同じ質問をしてきた。

コーヒー(さらに縮小)



嫉妬心を優越感が上書きする

彼女は、ちょっとだけ驚いた素振りをした。
そして、少しだけ照れ笑いをしたようだったが、自分を受けいれてくれた。

 ◇  ◇  ◇

彼女のなめらかな肌の上を、ふれるか、ふれないか、微妙な感覚、微妙な強さで、自分の指が優しくなぞっていく。

もどかしいくらいの時間をかけて、彼女の反応を確かめる。

会話が、会話にならなくなっていき、言葉が、喜悦の声に変わっていく。

彼女の肌に鳥肌が立つ。
抱きしめると彼女の心臓の鼓動が伝わってくる。
彼女の体温が上がっていくのがわかる。
彼女の心も体も、濡れている。

受け入れてくれた彼女に、優しさでこたえる。
心と同じように、優しく動く。

次第に、自分の気持ちの高まりとともに、彼女の反応を伺う余裕がなくなる。
自分の動きも激しくなる。

どれくらいの時間がたったのだろうか。
疲れ切った体がベッドに沈み込んでいくような感覚で、いつの間にか眠ってしまったのは二人同時だった気がする。

まだ眠りたりない気がする頭の中に、徐々に意識が戻ってくる。
同時に、彼女の顔、彼女の優しい目が視界に入ってくる。

彼女の方が先に起きていたようだ。
まどろみながら、彼女を抱き寄せる。

抱き寄せ、頭をなでると、彼女は呟いた。
「こんなに優しくされたことない」

まどろんでいた頭の中に、急に別の気持ちが紛れ込んできた。
今までどれだけの男が彼女を抱いてきたのだろうか。という嫉妬だった。

そして、自分は、
彼女の優しい目を、もう一度、確かめるように見つめる。

 ◇  ◇  ◇

締めつけられるような気持ちは、自分は今までの男とは違う。という優越感に変わっていた。

コーヒー(さらに縮小)



ときには言えない気持ちもある

遠距離恋愛は初めてではなかったが、平気なわけではなかった。
会える日は、会えなかった時間を取り戻すかのように彼女を求めてしまう。

はじめのうちは、観光案内をしてもらったり、食事をしたりしていたが、そのうち、駅から直接ホテルへ向かうようになっていった。

そんなつもりはなかったけど、彼女が性欲とストレス発散のはけ口になってしまっていた。

彼女とは体だけの関係が続いていた。
あるとき、彼女から「たまには映画でも観よう」と普通のデートの誘いを受けた。

コメディ映画を観た。一緒に笑った。
映画のあとは、久しぶりに食事をして、お酒を飲んだ。

それから、二人きりの時間になった。
でも、なぜか、彼女の体を求めることはなかった。
なぜだかわからない。
久しぶりのデートが新鮮だったのか?
それとも、彼女に冷めてしまっていたのか?

翌朝、駅まで彼女は見送りにきてくれた。
お互い、何も言わなかった。

そして、そのまま、二人は自然消滅、会うことはなくなった。

 ◇  ◇  ◇

あの夜、彼女の体を求めなかった理由はわからないままだ。

時間がたって、なんとなく思う。
映画が楽しかった。食事が楽しかった。お酒を飲んだのも楽しかった。
ただ一緒にいるだけで嬉しかった。

「好き」ってことだったと思う。

そのことに気づいていなかったのかもしれないし、気づいていても多分照れくさくて言えなかっただろう。
そして、「好き」だから、体だけの関係を終わらせたかったのだと思う。

彼女のことを思い返すだけで、胸が締め付けられる。

「好き」の一言が言えない「好き」もあるんだ

コーヒー(さらに縮小)



元カノの憂鬱

二日酔いのせいか、珈琲がいつもより苦かった。
元カノを思い出し、ついでに昨日の会話も苦々しく思い出していた。
 職業じゃなくて人なんだと思うーーー

 ◇  ◇  ◇

「ナースて、エッチだよね」そんな与太話をしてしまうのは、学生のころと変わらない。

今日は久しぶりに学生時代の友人と二人で飲んでいた。
もうお互い年齢を重ね、仕事ではそれなりの役職になっていたのに、変わらず、ろくでもない話をしていた。

看護師さんは、世間から、勝手にそんなイメージを持たれてしまっている。
ナース服なんて、コスプレの代名詞だ。
日頃からお世話になっている自分からすると、偏見にしか思えない。

友人は、一人で盛り上がり、話は止まらない。
「ナースもいいけど、保母さんも、エロいらしいよ?!」

まったく、いい加減な雑誌の「エッチな女性」特集みたいな話だ。
こんな会話をしてるなんて、友人も自分も、いつまでもガキってことだな。

そんな会話の中、自分は、曖昧な相槌を返していた。

自分のひきつっていたであろう顔には気づかず、友人の話はさらに続いた。
「そういえば、お前って、学生の時、保母さんの彼女いたよな?」

そう、当時、付き合っている彼女がいた。
実際には、まだ専門学校に通う保育士の卵だったので、なんとなく否定するような返事を返した。
昔の彼女と、どんな付き合い方をしていたかなんて、聞かれたくない。という気持ちもあったからだ。

話をそらすように、お店のテレビに顔を向けると、ニュースが流れていた。
内容は「(とあるお堅い職業の人が)仕事中に、みだらな行為をした」というもので、「ゆるせません」みたいなコメントで締めくくられてた。

その職業の人の全員が、そんな事をしてるわけじゃないと思う。

結局、何事も、
職業じゃなくて、人なんだと思う

コーヒー(さらに縮小)



海岸から観る夕陽はきれいで切ない

単身赴任となると、[家族と離れてしまい寂しい。。。]という人と、[羽を伸ばすことができて最高!!!]という人の両方がいるだろう。

自分の場合は、その突然の辞令に少し困惑していた。
ちょうどその時、家族というか、夫婦仲がうまくいっているとは言えなかったからだ。

営業職だったので人当たりが良くて、ちょっとお調子者だと言われていた。
同性に限らず異性と接する時も、壁のようなものを感じることがなかった。

女性の友達が多かった自分は、嫁さんから浮気を疑われていた。
だが、家族を大事に思っていた自分には、やましいことはなかった。
ただ仲がいい異性の友達が多かっただけなんだ。

そんな中、次第に嫁さんとの諍いが増えてきた。
そして、自分は家族を大切にしているのに、嫁さんから信頼されていないことに、とても辛さを感じるようになった。
心が荒んできて、だんだんと自暴自棄になっていた。

決めかねていた地方転勤の辞令だが、結局単身赴任することを選んだ。
嫁さんとは、少し距離をおいた方が、関係が修復すると思ったからだ。

転勤先は、大きな地方都市だった。
生活に困ることはなかったが、家族も友人もいない暮らしはさびしかった。

夕飯は食事を兼ねて、いつも近くの居酒屋へ一人で行っていた。

そんなさびしい転勤生活スタートも、すぐに変化は訪れた。
自分の一週間あとに、別の営業所から、一人の女性社員が転勤してきたのだ。

いかにも仕事ができそうな、ちょっとキツめの女性だった。
やりにくそうな予感がしていたが、そんな心配は必要なく、すぐに打ち解けていった。きっと似たような境遇のおかけだろう。

ある日、一緒に夕飯を食べることになったのだが、慣れない土地だったので、いつもの居酒屋へ行くことにした。

その居酒屋で気づいたことがある。彼女はよく笑うんだ。
その笑顔はとても愛嬌があり、かわいらしい女性だった。

お酒を飲みながら、彼女は彼女自身の話をしてくれた。
話を聞いてみると、まだ転勤先には馴染めていないらしい。
あと「実は男性もお酒も苦手なこと」を言っていた。

 ◇  ◇  ◇

その日以降、
お互い、一人きりなので、毎日、一緒に食事に行くようになっていた。
その頃は、男性苦手なのに、自分といてくれるのは、異性として見られていないだけなんだと思っていた。

そのうち「お酒だけじゃなく、遊びに連れて行って下さい」と言われてしまった。
ついつい惰性で、居酒屋へいつも行っていたが、彼女がお酒が苦手なことを忘れていた。
でも、まだ、その街のことはよく知らなかった。
遊びって・・・、ボーリング?映画?探せばダーツバーなら見つかるかも?!などと考えていたが、やはりどこも思いつかなかった。

結局、いつもの居酒屋で食事をした。
居酒屋を出ると、なんだか少しだけ申し訳ない気持ちになって、近くの桜並木へ散歩にいった。
気づくと夜風が冷たく、そして辺りから人影がなくなっていた。

気まずくなった自分は、いつも居酒屋で食事に付き合わせていることを、謝った。

すると、不意に彼女に見つめられ、
「・・・あと、2時間だけでいいから、あなたと一緒にいさせてください。」

自分は、突然の彼女の言葉に混乱していた。
たくさんのことが頭に浮かんできて、それを必死に整理しようとしていた。
[うん? 話がかみあっていないな? 2時間ってなに?]

何も言葉を返せないでいる自分に、彼女は突然キスをしてきた。
キスはしながらも、頭の中は混乱したままだった。
[一緒にって・・・ホテルへ行けばいいのかな?]

なんと言っていいかわからず、無言でとりあえず手をつないだ。
そのまま、タクシーに乗り込み、ホテルへ向かう。
海岸沿いのホテルの前で、タクシーを降りた。
[ラブホテルって、かならず、高速のICの近くか、海岸の近くにあるよな。どこでも変わらないんだな。]
と、頭の中で変なことに感心していた。

タクシーから降りた彼女は、ホテルではなく海岸へ走っていってしまった。
[えっ?遊びたいって、海で遊びたいの?]

彼女の言葉も行動も、よくわからないままだった。
すぐに戻ってきた彼女と、流されるように、ホテルへ入っていった。

ホテルで【休憩2時間】のボタンを押したとき、
[さっき言ってた2時間って休憩ってことだったの?]
と、また変なことが頭に浮かんできた。
もうホテルに入っているのに、状況に追いつけていない自分がいた。

 ◇  ◇  ◇

それから、月日は経ち、転勤先の仕事にはすでに慣れていた。

だが、自分の気持ちもよくわからないままだった。
彼女が何を考えているのかもわからないままだった。
わからないまま、あの夜と同じように流されるまま、二人の2時間を過ごしている。
変わったところといえば、彼女とは、

海岸へ夕陽を一緒に観にいくようになっていた

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アラフィフの憂鬱

五十にして天命を知る
自分には天命なんて見えていない。
心の中で言葉がこだまする。
 せいぜい頑張って下さいーーー

 ◇  ◇  ◇

アラフィフと呼ばれるようになっていたが、大人になりきれていない自分が嫌になる。
お詫びをしていた店長を思い出し、自分で自分が嫌になっていたのだ。

 ◇  ◇  ◇

はじめは、頭を下げている店長に、悪い印象は持っていなかった。
そもそも自分はそんなに怒っていなかった。
プロでも人間だから失敗することだってある。その失敗を責めたりしない。

何度も何度も、ただ同じお詫びの言葉を繰り返すだけの相手に、ふと疑問が生まれた。
 <この店長、何に対して謝っているのか わかっているのだろうか?>

確かめてみる。
 <やっぱり、わかっていない>

その場を早く終わらせたくて、お詫びの言葉をただただ繰り返しているだけだった。

気づいてしまったら、相手よりも自分が、この不毛なやりとりを早く終わらせたくなってしまっていた。
 <もう このお店に来ることはないな>
 <それよりも このお店 長くは続かないだろうな>

誠意は伝わった。とか、
そんな適当な理由を言って、やりとりを終わらせ、店を出ることにした。
ついでに、また来ます。とか、応援しています。とか、付け足したかもしれない。

でも、心の中では、大人げないこと思ってた。精一杯の皮肉のつもりで、
 <せいぜい頑張って下さい>と・・・

コーヒー(さらに縮小)



結局それを聞きたいだけなんだよな

「男女間の友情」は成立するのか?
人生、永遠のテーマだと思う。
自分は、若いころ「成立する」と思っていた。

学生時代、男2人・女1人の3人で仲良く遊んでいた。
いわゆるドリカム編成だ。
もしかして、今の若い人は、ドリカムが3人だったこと、知らないだろうか?!

とにかく3人は仲が良かった。
このドリカム編成のメンバーは、ドリカム女子(かわいい・彼氏なし)、ドリカム男子(彼女いる・彼女はドリカム女子とは別の子)、自分(彼女なし・ドリカム女子が好き)だった。

ドリカム男子とはサシ飲みすることもあったので、
自分の気持ちは、ドリカム男子だけには、話してあった。
でもドリカム女子には告白できないでいた。

ある日、いつものように、3人で飲む約束をしていて、
自分は、少し遅れて待ち合わせ場所に着いた。
二人ともいない。
そして、いくら待っても二人とも来ない。
携帯電話なんてない時代だったから、自分はひたすら待ち、ただ途方に暮れた。

後日、ドリカム女子に会ったので、事情を聞いてみた。
「待ち合わせ場所で【自分】を待っているとき、泣き出してしまった。
バイトでかなりツライことがあった。
その場所にいられる状態じゃなくなったので、場所を移動した。
そこで、ドリカム男子に、愚痴を聞いてもらったり、相談に乗ってもらった。」とのことだった。
とにかく、「勝手に先に行ってしまって、ごめんなさい」と自分に謝ってきた。

その後、泣いてしまったドリカム女子の様子を聞こうと、ドリカム男子をサシ飲みに誘うと、意外な返事がかえってきた。
「実は前から付き合っている彼女以外に、・・・。
好きな子ができた。
今日はその子と会う約束があるから、飲みにはいけない」

続けて、その新しい好きな子との成り行きも話してくれた。

「同じ地元の友達の中の一人で、
この前、二人で会ったとき、
バイトでかなりツライことがあったらしく、その子が外で泣きだしてしまった。
落ち着かせるために、場所を変えて近くの店に入り、その子の愚痴を聞いたり、相談にのったりした。」

うん?
なんか、聞いたことある話だ。
疑問に思っていたが聞くタイミングがなく、そして、話は続いていった。

「その子は、だれからも必要とされていない。いなくても構わない。むしろいない方がいい。誰からも求められていない。と相当落ち込んでいた。
そして、必死に慰めた。
彼女の存在意義を証明したくて、
そのときの流れというか、
そのままエッチをしてしまった。
それが今でも続いている。」

そういえば、
最近、あの会えなかった待ち合わせ以来、3人で遊ぶことがなくなっていた。
そして、
ドリカム男子とドリカム女子が、コソコソ話してることが多い。
もう、
自分は、完全に、二人の仲を疑っていた。

頭の中はぐるぐる回っている。
「男女間の友情」は成立するのか?
そう、しない。
自分がドリカム女子を好きだった時点で、3人に友情なんて成立してなかったんだ。

自分は、あふれ続ける勝手な想像に押しつぶされそうになる日々をすごしていた。

耐えられなくなった自分は、別の友人に相談した。
返ってきた答えは、

それって「お前らSEXしてんのか?」って聞きたいってことだろ?

言われて気づいた。
そうだよな。
野暮だ。
いや野暮というより情けない。
自分が情けなくなって、ただ呆然とするだけだった。

結局それを聞きたいだけなんだよな

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小遣いの憂鬱

転がる石には苔がつかないーーー

 ◇  ◇  ◇

学生時代の方が、社会人の今より小遣いは多かった。

これって既婚者あるあるで、お小遣い制の男性にはよくあることだと思うのだが、自分の場合は学生の頃の方が約10倍ほどだった。

 ◇  ◇  ◇

学生時代、時給のいいバイトとボロアパートのおかけで、手元に結構なお金が残った。毎晩、飲み明かし、友人からは、冗談で「社長」と呼ばれていた。

社会人になると馬車馬のごとく働き、そのおかげで会社から評価され「次期社長候補」と呼ばれていた。独身だったので、自由にできるお金はそこそこあった。あったけど、パソコンやバイクなど好きに使ってしまい、あまり残らなかった。

そのうち、働きすぎに疲れてしまい、転職した。ちょうどその頃結婚もした。任された仕事はしっかりやるが、忙しい生活に戻るのは嫌だったので、出世する気はなかった。「平社員」のままがいいと。

人生、社長 → 次期社長候補 → 平社員と、他人から見れば「転がる石のように」転落したように見えてしまう。

今月も嫁さんからお小遣いをもらい、ふと考える。
自分は、あの頃に戻りたいか。と。

 ◇  ◇  ◇

時間は有り余り、酒ばかり飲んでいた学生には戻りたくない。
物に囲まれていたが、いつも寝不足で通勤電車に揺られていた、前の会社には戻りたくない。

今はどうだろうか。と自問自答する。
夜遅くまで塾で勉強頑張っている。部活も手を抜かない。そんな子供達がすぐ隣にいる。
勉強しろ!部活入れ!なんて言ったこともない。
自ら勉強も部活も頑張っている。
勝手に良くできた子供に育っている。

いつも飲んでいる珈琲に、ほっと癒やされていた。
家族がいる。という当たり前の事に、感謝している。
そして、これからの未来を、とても楽しみにしている。

A rolling stone gathers no moss.

コーヒー(さらに縮小)



テキーラは口説き文句を教えてくれない

テキーラが浸かりきった脳に、大音量の音楽が、直接流れ込んでくる。
何杯飲んでも酔いつぶれることはないが、いつもと同じ高揚感を感じている。
ワンナイトの相手を探す視線がフロア中をうろちょろしていた。

どれだけのテキーラを飲んだのかは覚えていなかったが、
その日は、その日限りをすごす相手が見つからなかった。
テキーラの力を借りても、見つからないときは見つからない。

今日は、相方がいたのか、一人で来ていたのか、そんなことは思い出せず、ただ一人で店を出た。
どこかに行くでもなく、家に帰るでもなく、あてもなく歩いていると、
視線の先にひっそりと灯っているバーの看板が見えてきた。

入ったことはなかったが、前から気になっていたそのバーで飲みなおすことにした。

初めて入ったそのお店のバーテンダーが女性であることに少し驚いた。
残念ながら女性のバーテンダーさんは珍しいのだ。
そのバーテンダー越しに、バックバーを眺めると、見たことのないウィスキーがならんでいる。
ちょっと場違いな感じを受けつつ、カウンターに座る。
気持ちが少し落ち着いてきたのか、スタンダードナンバーが流れているのに気が付いた。

曲名を思いだそうとしながら、店内の雰囲気を確かめるように見回すと、お客は自分以外にはカウンターに女性客が一人だけだった。
「友達のドタキャンで、急に一人で来ることになって、広いホテルで寂しかった」とバーテンダーに話しかけているのが聞こえてきた。

「ガイドブックに、[女性バーテンダーのバー]と紹介されていたので、安心して来てみた」と続いていたので、どうやら彼女は旅行で来ているらしい

バーテンダーと彼女の会話は続いていて、
「明日は市内のお城を見学して帰る予定です」
そんな話も漏れ聞こえてきた。

「お城」という言葉が聞こえた瞬間、彼女を誘い出そう。と思い立った。
実はガイドブックには載っていないが、お城のライトアップが綺麗な事は、地元民には有名だった。
そして、そのライトアップされたお城を、彼女に見せてあげたかった。

誘い文句は、覚えていない。
地元の名物料理を食べに行こう。とかそんな言葉だった。と思う。
警戒心が薄いな。と感じたことだけは覚えている。

彼女は名前も教えてくれたが「珍しい名前ですよね」と軽く笑っていた。
そして、自分はその彼女の珍しい名前を覚えられなかった。

まずは、ライトアップが消える前にお城を見に行った。
その後、地元の居酒屋で名物料理を食べつつ、少しお酒も飲んだ。
さほど空腹でなかった二人は、すぐに居酒屋も出てきた。

彼女のホテルまで送る途中、広いホテルで寂しいなら一緒に飲みなおそう。
そんな風に、口説いた。と思う。

「実は、広くて寂しかったのは、昨日のリゾートホテルで、今日は狭いビジネスホテルなので寂しくないんですよ」
自分はあ然とした。
そしてその直後には、なんとも間抜けな断られ方で、自分は苦笑いをするしかなかった。

「お店を一緒に出たら、ワンナイトをすごす」
それが、テキーラの決まりごとみたいなものだ。

初めて入ったバーには、そんなルールなんてない。
ベッドをともにしたかったら、彼女を酔わせるような甘い言葉が必要だった。

でも、甘い口説き文句なんて、誰も教えてくれなかった。
と人生の憂鬱を感じていた。

そんな一人の帰り道、急に雨が降り出した。

家までは歩くには少し遠かったが、雨に濡れながら歩いて帰ることにした。

コーヒー(さらに縮小)



求愛の憂鬱

休日の午後、
挽き立ての珈琲豆へ熱湯をまわすようにそそぎ、
珈琲豆が蒸らされるのをじっと待っている。

行きつけのお店で買ってくる珈琲豆は、自分好みにブレンドされている。
珈琲を飲む。
ノンビリした時間が気持ちを落ち着かせることもあるし、
この珈琲の香りが、忘れかけていた過去の記憶を思い出させることもある。

イワヒバリが尾っぽを振りまわすーーー

 ◇  ◇  ◇

ベッドを共にしたい。
そんなときは男性からのアプローチの方が多いと思う。
反面、女性は受け身になりがちだと思う。

自分の場合は、まわりくどくせず「一緒に寝よう」と誘う。
うまくいけば、それでいい。
脈がなければ、キッパリと断られる。

でも、男と女は、そんなに割り切れるものじゃなくて、
どちらでもない、というか、どちらにも揺れ動く気持ちのときもある。

その揺れ動いている気持ちには、ストレートな誘い文句の方が、女性を「ドキッ」とした気持ちにさせることができる。
最初のアプローチではダメでも、この気持ちの揺れへのドキドキが、恋愛感情に発展するときもある。
恋愛術というほど大げさなものではないが、自分なりのちょっとした策略だった。

 ◇  ◇  ◇

では、
まったく女性からのアプローチはないのか。そんなことはない。
若い頃、男達の恋愛バイブル雑誌【ホットドッグプレス】に「女性からのエッチOKの合図一覧」が載っていた。

でも、困った。
どれも、遠回しな合図ばかり。
残念ながら、男は鈍い生き物なんだよね。
そして、自分はその代表格のように、ものすごく鈍感なんだ。

 ◇  ◇  ◇

いつも二人きりで飲みに行く飲み友がいたが、「女性だって性欲あるんです、やりたいときがあるんです」と、急に怒られてしまった事がある。
その後日、めずらしく、その彼女から誘われて飲みに行くと、いつもと態度が違う。優しい。甘えてくる。帰らせてくれない。
鈍感な自分は、振り切って帰ってしまったけど。
あとで思い返すと、求められてたんだな。と気づいた。【ホットドッグプレス】の「女性からのエッチOKの合図一覧」に載っていたから、きっと間違いない。

 ◇  ◇  ◇

鈍感な自分に嫌気がさしていたが、なぜだか、若い頃のほろ苦い思い出を思い返していた。
合コンで出会った女性。仲良くなり、楽しい話で盛り上がり、真剣な悩みには真摯に応えていた。そのまま自然な流れでキスをした。
自分は、段階的に関係が深まっていくのだろうと思っていて、そのときはキス以上の関係にはならなかった。
後日、合コンした友達の間で、自分のことがうわさになっていた。
「キスしたのに、手を出してこなかった。紳士だった。」と彼女は周りに言っていたのだ。
彼女にとっては、キスしたら、その先も当たり前だったらしい。まったく女心はわからない。
いつまでたっても、自分は恋愛初心者だ。

 ◇  ◇  ◇

動物の世界でも、求愛行動はオスがメスにするのが普通である。

しかし、稀に特殊な動物もいて、フラミンゴやサイカチマメゾウムシという甲虫の一種には、オス側もメス側もどちらも積極的な求愛活動を行うそうだ。

さらに特殊な動物で、イワヒバリという、日本の高山帯に住む鳥の仲間は、尾っぽを振りまわしメス側だけが求愛する事で知られている。

 ◇  ◇  ◇

ほろ苦い思い出が心を切なくさせたとき、もし生まれ変わることができるなら、自分は「イワヒバリ」になりたいと考えていた

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彼女が服と一緒に脱いだものは・・・

「女性はいつだって怖いんだよ。する前も。した後のことを想像したときも。」

そう呟く彼女に、自分は何度も頷いた。
その気持ちわかるよ。と伝えるために。

でも、本当は、わかっていなかったのかもしれない。
女性には妊娠するリスクもあるな位にしか、考えていなかったと思う。

 ◇  ◇  ◇

この弱肉強食の世界では、弱い生き物ほど、交尾の時間が短い。
交尾の間、生き物は無防備になってしまうからだ。
クモにいたっては、交尾ではなく交接というものをするらしい。
ある意味、子孫を残す本能の究極なのかもしれない。

子孫を残すためだけではなく、性欲を満たすためにも、SEXをする人間は、生き物として強いのか?

いや、人間は弱い生き物である。
ただ、安全な部屋の中、ベッドの上、なんとなくの安心が、人間を快楽の世界へ誘っていく。

 ◇  ◇  ◇

彼女が「怖いんだよ」と呟いたのは、二人がそういう関係になる前だった。

いつしか、二人の愛情は深まっていき、関係を持つようになった。
いや、愛情だけではなく、もしかしたら、欲望が恐怖に勝っただけなのかもしれない。

彼女が「怖い」と言っていたことも忘れかけていた頃、彼女はベッドの上で、呟いた。

「恋をすると体だけでなく、心も裸になる」

彼女の初めの言葉を思い出し、何が怖いのか、少しわかった気がする。
もしかしたら、勘違いしてるかもしれない。
でも、彼女は、体だけでなく、心ごと、自分に委ねてくれた。ということはわかった。

より愛おしく感じた彼女の体を、心ごと、自分は抱き寄せた。

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満員電車の憂鬱

妄想退職届を心の奥に隠してーーー

 ◇  ◇  ◇

はやく帰って、疲れた体を休めたい。
会社帰り、自宅の最寄り駅へ着いたとき、ちょうど雨が降り始めてきた。
そのタイミングの悪さも、自分を憂鬱にさせた。
しかし、はやく帰りたい気持ちとは裏腹に、帰り道にあるいつもの喫茶店に寄ってしまう。
やはり、自宅で飲む珈琲とプロの淹れてくれる珈琲の味は違う。

 ◇  ◇  ◇

「通勤時間なんて人生の無駄遣いでしかない」
そんな自分は、職場の近くに一軒家を構えることにした。

建ててしまった後に、職場の配置換えで、通勤時間が長くなってしまった。
「5分」が「2時間」となり、苦痛しかない。

通勤電車は、もみくちゃに混雑していて、座れないだけでなく、趣味の読書もできない。
読書できないだけで、人生一つ損している気分にさせる。

 ◇  ◇  ◇

それにしても、同じ電車から見た外の風景なのに、
「通勤」と「旅行」では、なぜ?あんなに見え方が違うのだろう?

旅行での電車では、
住宅街の隙間から見える畑や田んぼ、不意に出没する公園、仲良く歩いている恋人たちが、目に入ってくる。
なんか、ほっと癒やされる。

通勤は、ただただ同じ風景。
当たり前だけど。
そもそも景色を眺める余裕すらない。

一軒家を引き払って、引っ越そうか?
それとも、思い切って、転職してしまおうか?

自分の心の奥底には、いつも「妄想退職届」をしのばせている。

この妄想が具現化したときは、どうなるのだろうか?
自分は有意義な時間を手に入れられるのだろうか?

退職届とともに、新たな生活も妄想している。

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接待の憂鬱

珈琲を飲み、くつろいでいた。
なんとなくつけていたテレビから、ドラマが流れていた。
ドラマの中では、「今どきの若いものは、上座と下座もわからんのか!」と、若いサラリーマン者が取引先から怒られていた。
その後シーンは変わり、そのサラリーマンは「接待で、上座とか下座とかって、そんなに大事ですかね!?」と先輩社員に不満を漏らしていた。

自分も若い頃は「接待マナー」なんて理解できなかったし、そういうことに気を使ってお酒を飲むことが嫌だったので、接待のない職業に就いている。

しかし、当時はわからなかったが、いまは「接待マナー」の大切さをすこしは理解しているつもり。
昔、先輩や取引先から、よく言われた言葉を思い出していた。
今どきの若いものはーーー

 ◇  ◇  ◇

人間は嘘をつく生き物である。
だから、人間は、相手の言葉だけでなく、態度や行動からも相手を評価する。

いくら口で「あなたのことを敬っていますよ」と言っても、それだけでは敬意は伝わらないということ。
自分は下座に座ります。相手には上座に座っていただく。などの行動も伴って、敬意が伝わるのだ。
まぁ、それだけではないが。

その辺、経験のない若手社員が、理解しているだろうか。

自分も教える側の世代になり、新しい世代の若手社員に言うのだろう。
自分が若い頃に言われてきたことと同じことを。

それは、長年にわたり言い継がれてきた言葉、

今どきの若いものは・・・

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重たい扉は開けてしまうと閉めるのが難しい

その扉はとても重厚で、向こう側とこちら側を完全に遮断するかのように閉まっている。
常連になっていた自分はその扉を、いつものように右手ですっと開けて、お店の中へ一歩入る。

カウンターの中にいる馴染みのマスターと目が合う。
いつも座るカウンターの席へと促される。
そこは自分が行きつけにしているバーで、カウンターとテーブル席が2つだけの小さなお店だ。

カウンター席までの数歩の間に、自分は考え事をしていた。
ほんの一瞬でいろいろなことが、頭の中を駆け抜けていく。
入ったことのないバーって、中が見えないから、入りにくいよな・・・

[最初に連れてきてくれたのは友人だった]と思いだしたころで、ちょうど席に座り、マスターの「いつものですか?」という声が聞こえてきた。

いつも頼んでいる少し度数の高いお酒を一口飲んだところで、マスターから「仕事帰りですか?」と挨拶がわりの一言があった。

じつは、今日は待ち合わせなんだ。
この居心地のいいバーを紹介してくれた友人と会うことになっていた。
友人はまだ到着しておらず、マスターが自分の席の隣に、そっと予約席の札を置いてくれた。

ちょうど一杯飲み終えたころに友人は到着した。
友人の注文と一緒に、自分も二杯目をお願いする。

今日は、酒を楽しく飲む日じゃない気がしている。
友人から「相談がある」と言われていたからだ。
そう言われて、いい予感などするわけがない。

相談とやらを聴いてみると、同僚とダブル不倫の関係になり、泥沼にはまりそう。という話だった。
「お互い既婚者だし、割り切った関係だと思っていた」と少し憔悴気味につぶやいていた。

友人は、中途入社で採用された女性の教育担当であり直属の上司だった。
一緒に仕事をすすめていくうちに、次第に仲が良くなっていった。
そして、ついには、体の関係をもってしまった。
その彼女も、既婚者だった。という話だ。
よくある話だ。

先が見えない二人の関係。
だが彼女は「好き、別れられない」と関係を終わらせてはくれない。
それが友人の悩み。
割り切った関係を期待していたのだから、続ける気はないのだろう。

自分も酒がまわりつつある頭で、友人に何を言えばよいか考えていた。
言うべきか、言わないべきか、様々な答えが頭の中に浮かんでくる。
[上司に頼ることが疑似恋愛状態になった]
[お前は、男としての性欲にあらがえなかった]

彼女の気持ちは幻想であり好きと勘違いしているだけ、二人の関係に未来なんてないことを伝えたかった。
だが、考えはまとまらず、なんと言えばよいかわからなかった。
結局、答えがみつからないまま、時間は深夜になっていた。

もう、お店から出ようとして、あの重厚な扉を押し開けた。

そのとき、かけるべき言葉が見つかったような気がした。
その言葉で解決できるとは思えなかったが・・・、

重たい扉は開けてしまうと閉めるのが難しい

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バーの扉が閉まるとき

早い時間にその店に着くと、お気に入りの席はあいていた。
行きつけのバー、左端のカウンター、妙に落ち着く席だった。
そして、今日は友人との待ち合わせでもなかったので、気持ちも楽だった。
もしかしたら、友人とは、今後そのバーで会う事もないかもしれない。

マスターに一杯おごり、乾杯をする。
挨拶や世間話もせずに、友人のダブル不倫とその顛末の相談を、早々に話しはじめる。

マスターからは、
「男はSEXが恋愛のゴールで、女はSEXから恋愛がスタートする。」
そんな誰かの格言のような返事がかえってきた。

マスターから目をそらし、バックバーのボトルを眺めながら考えていた。
男なら誰だってわかっていたはずだ。
相手が人妻なら、泥沼にはまることを。

少しマスターは考えているような沈黙の後、話を続けてくれた。
「好きな人としか一線を越えてはいけないというモラルがあって、
逆に、一線を越えてしまうと、女性はたいして好きでもなかった相手を好きだと思い込んでしまう心理があるそうです。」

 ◇  ◇  ◇

なぜ、友人と、このバーで会えないのか?
たいした理由ではない。
友人は、セクハラ問題で左遷になってしまったのだ。
しかも不倫相手とは、別の女性がセクハラの相手だった。

先日うけた友人からの不倫の相談にも、アドバイスできなかった。
その上、会社でのセクハラによる不祥事。

自分は、もっと何かできたのではないか。という後悔や、後味の悪い何かを感じていた。

マスターから、同情でもない、慰めでもない言葉が返ってきた。
「わたしにはわかりませんが、
もしかしたら、わざと会社で問題を起こしたんじゃないでしょうか。
やり方はよくなかったかもしれないですけど、彼は不倫を終わらせたかったのかもしれないですね。」

そのマスターからの一言に、なんか救われた。
苦かったお酒の味も変わった気がしてきた。

入ってきたときとは違う気持ちで、そのバーを出た。
見送りに出てきたマスターが、その扉をそっと閉めてくれる。

自分はその様子を見ることもなく、歩きはじめていた。

タイトルなし



エピローグ

ミルをゆっくりと回し、珈琲豆を挽く。
以前は電動ミルを使っていたが、最近ハンドミルに変えてみた。
手間も時間もかかるが、ハンドミルの方が「香りがとばず」、珈琲が美味しくなるそうだ。

より香りを楽しめるように、ゆっくり、ゆっくりと回す。
手の動きにあわせて、不思議と心もゆったりしてくる。

[香りと記憶は結びついている]と聞いたことがある。
今日はどんな自分を思い出すのだろうかと、期待しながら、珈琲カップを手にした。

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あとがき

読んでいただき、ありがとうございます。

作品に登場する主人公の「自分」は特定のだれかではありません。
ありふれた話を描いたつもりです。
作者としては、読者様から、だれにでも「思い当たるふしあり」となっていただけると嬉しいです。
なので、本のタイトルは「誰でもない自分・・・」にしました。
なんか聞いたことのある気がするタイトルなので、もっと洒落たタイトルにしたかったのですが、他に思いつきませんでした。

この作品の主人公は、すべての話で「同一人物」としたかったのですが、設定ブレブレなので、「パラレルワールドの同一人物」としていただけると幸いです。

何故、ブレブレになってしまったか?というと、当初は各話は独立したショートショート作品でした。
この複数の作品を集めて、ショートショート集にしました。
各話を書いている段階で、同一人物の構想はなかったので、そのため設定ブレブレになってしまいました。

つまり「パラレルワールドの同一人物」は苦肉の策です。
「誰でもない」なので、それはそれでありかなと、作者としては納得しています。

さて、読んでいただいて、いかがでしたでしょうか。
既に単発の作品を読んでいただいていた読者様には新鮮さはなかったと思います。
しかしながら、誤字脱字に限らず、細かな表現まで見直しをいたしました。
また、続けて読んでいただくことで、新たな捉え方もできたのではないか。とも思っております。

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解説

文庫本の最後のように解説も書いてみました。
解説といえば、著名な方に書いていただくのが普通だと思いますが、アマチュアな私にはそんな方はいないので、自分で書きます。

この「誰でもない自分はそこにいる」は、ラストカツ丼(2023年3月改名)のショートショートを加筆修正し、まとめたものです。
2021年7月の「あれが初恋だったと大人になって気づいた」が初作品であり初投稿です。
その後に投稿した約20話をまとめています。

それぞれ独立した話になっていますが、以下だけは、各々3話と2話の続編に無謀にも挑戦しています。

①同じ場所、同じキス、同じ言葉・・・
②嫉妬心を優越感が上書きする
③ときには言えない気持ちもある

①重たい扉は開けてしまうと閉めるのが難しい
②バーの扉が閉まるとき

各作品は文字数も少なくさらりと描いていますが、作者なりに「人間の心理」を盛り込んでいます。
その心理を作中で解説しているときもありますし、あえて解説していないときもあります。
読者様が、共感してくれたり、不思議を感じてくれたら、嬉しいです。

「エッセイのように気軽に読める小説」と銘打っていますが、実は「小説なのにエッセイと錯覚させる作品」を目指しています。
もし、読んでいただき、エッセイなのか小説なのか迷うことがあれば、作者の思惑にはまっていただけた。と、それも嬉しく思います。
作者本人:ラストカツ丼(2023年3月改名)


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