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ロングバケの終わり

(18)月子さんとノブちゃんへ

 トーマスが去ってからの日課は、まさに長期のバカンスを楽しむヨーロッパ人の休暇のようです。人生初めてのロングバケでした。
 島に来てまだ2週間だというのに、すっかりスペイン人に変身してしまったのです。たぶん日本人よりもスペイン人の生活のほうが、自分の気質に合っているに違いない。なにしろ昼寝をしてまったく罪悪感を感じないというのが至福の喜びです。
 というよりは、本当の自分、「本当の自分の色」でいられることが幸せなのでしょう。トーマスと短い恋愛に耽ることができ、誰の目も気にすることなく、身も心も裸になれたことが何よりも快感だったのです。人生で初めてのことかもしれません。

 朝、8時ごろ目覚めると泳ぎに行きます。プロムナードの端にデッキがあり、そこに軽いジョキングをしながら向かい、着くとすぐに透明な海に飛び込み、30分程度泳ぐのです。朝、海はまだ清々しく新鮮で、波は穏やかで海水浴客も少ない。透明の海をほとんど独り占めすることができます。
 海からの帰り道にパン屋に寄り、ランチのためのパンを買います。それから自転車に乗って、ワイン探しのプチ旅行です。午後は余りにも暑いため、正午前にはホステルに一度戻り、サンドウィッチを作り、それを持ってまた海に出かけます。午後は例のヌーディストビーチへ。そこでスッポンポンになり、サンドウィッチを食べ、ビールを飲み、ゆっくりとシエスタ、昼寝です。この海辺のシエスタを自分は堪らなく愛しています。文化として昼寝をするスペイン人は偉大です。

マヨルカ島の白ワイン。シャルドネ80%とマヨルカ島の品種のブレンド。美味しい!

暑くなれば海に飛び込み、泳いだり寝そべったりして、のんびりと過ごし、夕方ごろ引き上げます。

「日本じゃ、いまごろ満員電車の中だろうな……」と、思いながら水平線の夕日に見入ります。

 ホステルに戻るとシャワーを浴び、そして冷えたロゼワインを持って屋上へ。日本ではほとんどロゼワインを飲んだことがなかったのですが、ここ地中海を訪れ、ロゼの素晴らしさに目覚めました。甘い、ないしは甘ったるいとばかりだと思い込んでいたロゼですが、実はここで飲まれているものはドライ、辛口で、夏の暑いとき、特にキンキンに冷やして飲むとランチにも夕飯にも抜群の相性を発揮します。魚介類はもちろん、生ハムやチーズにも最適。赤ワインだと夏の間適温に保つのが難しく、それに夏には重く感じられ、胃袋に堪えます。

 



マヨルカ島のロゼワイン

 ロゼはなかなか微妙で、野いちごやあんずを感じる軽快で可愛らしい味わいものや、フレッシュな香りと繊細な果実味に溢れるものや、優しい甘みと果実味、僅かな渋みが同居するものや、中には地中海のフルーツのような香りに満ち、心地よい酸味が余韻まで続き、優しいタンニンで締めくくっているものもあります。優しいキスのような味わい、日本なら春の桜が咲くころのそよ風のような味がします。繊細で女性的なワインですが、何しろ特徴的なのはそのフレッシュさの中に美味しいにがみが潜んでいることです。どこかほろにがいのです。

 なぜ、日本でロゼワインは人気がないのでしょうか。月子さんとも、ノブちゃんともロゼワインを飲んだことがないし、話したという記憶もありませんね。二人に捧げるワインとしてロゼワインも買って帰ろうと思っています。もちろん、素晴らしいものが見つかればですが。

 毎晩、屋上のバルコニーに行き、夕暮れに乾杯しながら飲むロゼは天使の味わいです。徐々に温度が上がり、たった2、3度上がっただけで、ロゼの味が微妙に変化します。その温度の飲み比べがまた楽しいのです。常温近くになると、味わいがまた変わります。

 色もピンクというか、桜色というか、その色は実に美しい。限りなく透明な桜色もあるかと思えば、燃える夕焼けのような濃い色のものもあります。ほとんど赤ワインの色に近いロゼもあるのです。そう、赤いバラのような色です。ピノ・ノワールかと思うほどの赤です。一口にロゼといっても、あらゆる濃淡、グラデーションがあるのです。

 これには正直驚きましたが、嬉しくもなりました。男に惹かれる自分のピンクのハートがどんなロゼ色をしているのかと想像するだけで楽しくなります。ロゼがこんなにも美しい色をしているとは! 
 それを知っただけでも感動的ですし、自分のピンクハートがロゼ色をしていると考えてきことを自画自賛したくなるほどです。中学生のころ見た夏の花火の影響か、これまで濃い桜色か、オレンジやみかんのだいだい色か、いちごかりんごかサクランボの薄い赤か、ないしはそのすべてを足した色ではないかと勝手に思い込んできました。これほど多様なロゼの色があるとは素晴らしい限りです。

 

世界はロゼワインなのだ

 味や色だけではありません。ワイングラスを空にかざすと、桜色が空に交わり、世界がピンク色に染まり、燃えるような夕暮れの空がさらに劇的に、感動的に映ります。それを見ているだけで幸せな気分になれます。月子さんとノブちゃんにもこの風景を見せ、美味しいロゼワインを飲ませてあげたかったです。そう思うと切なくて、切なくて、悲しさで胸がはち切れそうです。

 ただ、ロゼを本当に美味しく感じるのは、その苦味のためではないでしょうか。赤いフルーツの味がして、色が綺麗なだけではジュースとほぼ同じでしょう。美味しいロゼには苦味、あの辛口白ワインのアルバリーリョやヴェルディッキオと同様、ほろにがさがあります。白ワインよりも果実味があるため、苦さも際立ちます。
 そう、ロゼには人を誘惑するような甘く濃いピンク、キスしたくなるような口紅の色と、ビールやコーヒーやゴーヤにあるような独特の苦味、その濃密で複雑な味わいは、いわば甘みと苦味が同時に同居している不思議な謎に満ちた味わいで舌を誘惑し、飲む者を魅了するのです。
 ロゼは美しいが、美しいものにはトゲがあります。自分のピンクのハートも興奮するなり、ロゼ色に染まっていきますが、そこに苦味や酸味が潜んでいるのです。悪魔が隠れているのです。そこには「毒」が隠されていたのです。

 また、メールします。
 (続く)

 

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