映画『オッペンハイマー』のモヤモヤ感
映画『オッペンハイマー』を観て来ました。
(ネタバレしないように書きたいと思いますが、想像できたらすいません)
私は被爆三世です。
原子爆弾を開発した物理学者が主人公、アメリカで製作されたこの映画のことを初めてテレビのニュースで知った時、何とも言えぬどうにもならぬモヤモヤした感覚を身体で感じ、テレビの画面を食い入って眺めていました。
「まさかこんなことが!」
こんなデリケートな題材で映画を作ったアメリカ人の監督がひょうひょうと日本のテレビで語っている!
「どうせわかりっこない。わかられるはずがない…」
日本人観光客や修学旅行生ですら、ヒロシマに起こった出来事に想いを馳せることができずに大切な慰霊碑に落書きをする人もいる中で、アメリカ人目線の映画に何が発信できるのか!
わたしの感じた『驚き』や「どうせ~」の『諦め』『怒りに似たイライラ』『悲しみ』わたしに刻み込まれた原爆の記憶なのかもしれません。
長い間、被爆者が感じ続けて生きてきた感覚なのかも。。。
負の感情は負の連鎖しかうみません。
そんな負のスパイラルに留まっていて、子ども達の平和な未来の世界に繋げていけるのか?
「みたい」映画ではないけれど「みなくてはならない」映画。。。
そんな気がして。
じっくり向き合い、考えたかったので1人だけで映画館へ行くことに。
広島県で生まれ育ったわたし。
毎年夏には語り部さんの講演を聞いたり、『はだしのゲン』映画を観たり。平和教育は、子どものわたしに『恐怖』を刻み込んだ。
その頃のわたしは、飛行機の音が聞こえる度に耳を塞ぎ、目を閉じ、丸くなり。まるで防空壕に避難した子どものように。
戦争=恐怖
自分は無力で抗えない大きな力。それが戦争のイメージだった。
「自分には何もできない…」
ただうずくまり貝になりやり過ごした。
幼い頃の体験。。。
映画『オッペンハイマー』
地響きも感じる大きな爆発音のような音と映像が何度も流れる。
まるで原爆の爆風の中にいるような。
耐えきれなくなり片方の目を手で覆った。
久しぶりに感じたフラッシュバックのような『恐怖』から、我を忘れないように、戦闘態勢のように斜めに座り直し「これは映画」とつぶやいたわたしだったけれども、胃のあたりがぎゅーっと締め付けられる。
「それでも目を背けずに向き合えるのか?」
3時間の映画を見終えて。
最初の感想は「ほっとした」だった。
原爆をつくった主人公がその後、苦悩した日々を送ったことに「ほっとした」
他人の不幸せなんて願いたくはないけれど、どうしても「ほっと」してしまったわたし。。。
原爆の制作に関わる前の主人公はただの『人間』でした。
人間関係や恋愛に悩み、「嫉妬」や「妬み」に苦しみ。
色に溺れて。人にだまされ。
オッペンハイマーが専門としていた、小さなミクロな世界を扱う量子力学や宇宙を世界を考えていれば、人なんてただの線の一部にしか過ぎない存在だったのかもしれない。
そんな、取るに足らない存在と感じることで、自分の悩みがちっぽけに感じられることもあるけれども。
まるで、アリンコのように自分自身までちっぽけで、他の誰しもがちっぽけなただの点に思えたのかもしれない。
そこに、思いやりに満ちた「命」や「愛」を想像できなくなっていったのかもしれない。
主人公のオッペンハイマーが原爆の研究に科学者仲間を誘った時に、仲間からかけられた言葉。
その後主人公は、ナチスが作る前に自分達が作るしかないのだと仲間を説得していました。原爆の開発は『平和』を守る為なのだと。。。
『平和』って何なんだろう。
『科学』って何の為にあるんだろう。
ただの『人間』が世界を壊せるならば
世界を守ることができるのも、ただの『人間』なんじゃないか。
映画『オッペンハイマー』は何を伝えたい作品だったのかと言うより、映画を通して私達がともに考え続ける為の機会をくれる作品だったんだと感じた。
3時間の長丁場、抽象的な表現も多いこの映画、どこを切り取るかは「あなた次第」
「何もできない」と諦めず「何かできること」を探していく。
きっとあなたにも。
あなたの中にもある。
大切なこと。
どうぞ子ども達の未来に幸せの連鎖が続いていきますように。
どうぞどうぞ一緒に考えていきましょう。
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