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奥田民生になりたい「個人」と出会う男すべて狂わせる「分人」

先日、Amazonプライム・ビデオに追加された『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』という映画がある。

同名のサブカルマンガを『バクマン。』『モテキ』の大根監督が実写映画化。奥田民生を崇拝する雑誌編集者の青年・コーロキ(妻夫木聡)と、全ての男を好きにさせるほど容姿端麗な美女・あかり(水原希子)が繰り広げるラブコメディ。

あかりに好かれるため、憧れの奥田民生のように「力まないカッコいい大人」を目指し四苦八苦するコーロキ。結構序盤でその願いは叶い、見飽きるほどに深いキッスを連発する。かと思いきや、途端に嫌われて既読無視をされたり。

あかりに振り回されるコーロキが哀れであり、愛くるしくもあり、応援したくもなる。


のだが。


ラスト15分の展開のせいでで全く別のことを考えてしまった。この映画は分人主義の良さを分かりやすく、かつコミカルに教えてくれる

※分人主義とは?
人間誰しも色々な顔があるのが普通で、家庭、職場、友人などなど、それぞれの場所でそれぞれの顔を持っていて良いという主義。詳しくは平野 啓一郎さんの『私とは何か――「個人」から「分人」へ 』(講談社現代新書)をご覧ください!

※以降、ゴリゴリにネタバレしていきます。




すごく面白いと思ったのが、コーロキとあかりの対比、そして、最終的にコーロキもあかりと同じ道を歩むというラストである。

あかりを取り合う3人の男たち、コーロキ、ヨシズミ(新井浩文)、木下(松尾スズキ)が一同に介するラストシーン。

男たちがそれぞれあかりを自分のものだと思っている理由を回想する。彼らの回想は決して妄想ではない。あかりが男たちに対して「あなたが望むようなことを言って、してあげている」だけなのである。

この多面性、まさに分人主義である。


一方のコーロキは、奥田民生崇拝、いつでもどこでも奥田民生は完璧だと思っている。「こんな時、奥田民生なら・・・」「どうして俺は民生みたいにできないんだ・・・」と頭を抱える。奥田民生はどこに行っても、誰から見ても格好良い姿をしているのだと信じている。

つまり圧倒的な個人の存在を信じている。完璧な人間は存在しており、その人間は誰に対しても同じ顔をしているのだと。

個人崇拝のコーロキと分人主義のあかり、この対比に注目すると二人のやり取りにぐっと深みがます。なぜ彼らが分かり合えないのか。そもそも価値観が違うからである。


そして個人崇拝はコーロキだけではなく、ヨシズミ、木下も同様であった。しかしそれなのに、ラストでコーロキだけ「もういらない」と突き飛ばされる。

なぜか色々推測はできるが(そもそも残りの二人は死にかけていたし)、おそらくコーロキが個人から分人へと変わり初めてしまっていたからだろう。

そう思わせるのが、ラストの回想シーン。あかりはコーロキに「コーロキくんにとって奥田民生は神様なの?」と質問する。それに対して「神様ではないかなあ」と答える。

個人崇拝の行き着くところは、個人を神格化することだ。しかしコーロキは奥田民生を神とまではしなかった。おそらくあかりと出会い、様々な経験をする中で「絶対的な個人などいない」ということに気がついてしまったのだろう。

そうなるとあかりは面白くない。個人崇拝は分人主義の人間にとっては魅了しやすい。なぜなら、個人主義は決まった価値観で動くので、分人はその価値観に自分の顔を合わせてあげれば良いから。「あなたが見たい私が、本当の私だよ」とあかりは言う。

その魔法が解けてしまいそうだったから、あかりはコーロキを捨てたのだろう。

そして本当のラスト。コーロキはあかりと同じように分人の顔を見せる。その結果、敏腕編集者として周囲からの脚光を浴びる存在になった。無理して奥田民生のフリをするのではなく、相手が見たいと思う自分に合わせる。それが「コーロキが理想とした”奥田民生”」に近づくことだった。個人崇拝の理想を叶えるためには、個人崇拝を捨てるという皮肉がいい。


分人主義という考え方に興味がある人は、一度見てはいかがだろうか。



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真央

真央と書いて、まさおと読みます。会社員をしながら、たまにライターをしてます。映画、教育、飲み屋、の話を書きます。それから、「日刊かきあつめ」という駆け出しのライターたちによる毎日更新の共同マガジンをやっとります。

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